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しばらくいとこの家に泊めてもらうことにした幸子は、当面の荷物をまとめたバッグを手に電車に乗った。忌々しい記憶の1ページに綴られることになった幸子のアパートとは別世界のような閑静な住宅街にそびえる高級マンションがいとこ夫婦の住まいだった。いとこは出張で不在だったが、明るくて優しい妻とヤンチャなネコが幸子を出迎えてくれた。母親が上京した際に使う和室は急遽、幸子の部屋になった。ようやく人の気配を感じながらも気兼ねせずに眠ることが出来た。
翌日から幸子は登校復帰した。学園祭の準備に追われあっという間に1日が終わる。いとこも出張から帰ってきてにぎやかさが幸子を癒してくれた。あぁ、時間がきっと私を元気にしてくれる。失恋のようにやがて記憶の片隅に追いやられていく体験になるんだろうと思った。
事件から1週間ほどして病院からいとこのマンションに帰った幸子は入浴が許可されたことを報告した。マリンブルーの湯船に身を委ねようとそっと首の包帯を外し唖然とした。幸子の首にはくっきりと左右に8本の指の痕が残されていたのだ。
だから誰も鏡を見せてくれなかったんだ・・・・。
締め上げた時の擦過傷は瘡蓋になっていたが、紫色に染まっ幸子の首にはまだくっきりと指の痕が残っていたのだ。改めてこみ上げる恐怖を打ち消すように幸子は自分に言い聞かせた。これは勲章なんだ、それでも生きている私の勲章なんだと・・・。
1週間ほど世話になったいとこの家を出て、幸子はまた自分のアパートに戻った。
今日からまたここで一人で生活するのだ。聞こえてくるのは虫の声と隣の猫の鳴き声だけなのだ。すると誰かが幸子の部屋を訪ねてきた。
「どちらさまですか。」
「母親です。警察から連絡を受けて上京しました。」
幸子がドアを空けた瞬間年老いた母親は玄関のコンクリートに頭をこすり付けて何度も何度も謝っていた。
「すみません・・・本当に申し訳ありません・・・母一人子一人でなんとかこれで・・・。」
治療費にも満たない金額の封筒が目の前に差し出されたとき幸子は思った。へたをすれば死んでいたかもしれないのに・・・私がどんな思いをしたと思っているのか、どんなに怖かったか、どんなに苦しかったか・・・。母や兄が上京してくれたときの交通費だってあるし、学校を休んだことやバイトを休んだことなどどれだけの出費があったのか。決して裕福ではない幸子の家庭にはとても重い負担であったのに精一杯だからという理由で・・・どうして借金や家財産を処分しないのか、あなたは加害者の保護者でしょう。こんなはした金で済むと思ってるのか。怒りがふつふつとこみ上げてきたが泣きじゃくりながら額がすりむけるほど頭をこすりつける年老いた母親に幸子は何も言えなかった。
「ひとまずこの封筒はお預かりします。」
受け取るともつき返すとも言わなかった。きっと両親に相談したらちゃんと慰謝料のこととか話し合ってくれるだろうと思ったからだ。しかし、そんな幸子を裏切るかのような母の言葉に愕然とした。
「仕方ないじゃない。命があっただけでも不幸中の幸いなんだから。」
これは意図的に行われた犯罪なのである。災害や事故ではないのにどうして不幸中の幸いなどという言葉が出てくるんだろう。幸子は孤独というトンネルに入っていくのを確信した。
数日後、再び母親が尋ねてきた。なにやら書類にサインをしてほしいとのことだった。そして身の上を語り始めた。母子家庭で籍を入れていない父親は日本人ではなく、現在も日本にいないこと、それを理由にいじめられて育ったこと、シンナーに溺れるようになったわけ、幸子の友人である恩師との出会いのことなど・・・。さらに、幸子以外にも被害者がいたこともはじめて聞かされた。そして後でその書類が上申書だと知ったが、とにかくその書類に幸子のサインがなければ少年院に行かなければならなくなるとのことだった。そして、もう一人の被害者からはすでにサインをもらってきたという。サインをしなければ私のほうが非情な人間だと非難されそうな気がして、納得はできなかったがサインだけはすることにした。しかし、そのサインは長く苦しい日々へと誘う悪魔との契約書になろうとは幸子は思ってもみなかった。
「必ず東京を引き払ってお母さんの元に帰るんですよね。」
幸子は念を押してからこの悪魔との契約書にサインし捺印した。これで刑事上は1件落着である。世間的に事件は解決したのである。被害者を置き去りにしたまま事件は過去のものとなっていくのであった。
そして忙しく準備に追われていた学園祭を迎えた。
「ヤツが来てたらしいよ。」
「そんなバカな! 少年鑑別所だって・・・。」
「あ、でもね、学長が追い返したって。幸子と顔をあわせたらどうする気だってすごい剣幕で追い返したらしいよ。それに退学になるらしいし・・・。」
もう釈放されたのか・・・まだサインして幾日も経っていないのに・・・そんな大事なことどうして誰も教えてくれないの・・・学長の気遣いはありがたかったが、同じ学園内に加害者と被害者が同時存在することに学長も胸が痛いだろうなと幸子は思い、きわめて明るくふるまった。学園祭で元気にはしゃぐ姿を学長に演じていた。そんな学長を裏切る加害者の訪問はさらに幸子を出口のないトンネルに導くのであった。
「今日で荷物を引き払って帰ることになったのでご挨拶に伺いました。」
できればもう二度と見たくない顔であったが、憎しみや怒りをぶつけたいとも思った。汚い言葉で罵ってやりたいとも思ったが、命があったくせにあそこまで言うことはないだろうと非難されそうな気がして言えなかった。でも、事件以来、すっかり生活スタイルが変わった事実だけは言っておきたかった。
「あれから夜眠れないんですよ。学園祭までは誰か彼かいましたからよかったけど、一人で夜眠れないんです。ちょっとした物音にも目が覚めてしまうし、何度も戸締りを確かめないと気がすまないし、電気もつけてテレビもつけて・・・テレビの放送が終わるとラジオをつけて、レコードもカセットテープもエンドレスにかけて、静かになるとドキドキして眠れないんですよ。私がどれだけ怖かったかわかりますか。人気のない道も怖いんです。こうしてあなたが加害者だとわかっても恐怖心は消えないんですよ。」
白人の血をひいた長身で端正な顔立ちの若い男は幸子の言葉を聞いて涙を流していた。すみませんと小声で言う男にそれ以上いう言葉はなかった、というよりこれ以上エスカレートすれば罵倒してしまいそうで言葉を飲み込んだのだった。ひたすら非難されるのが怖かったのだ。謝っているのに、泣いているのにどうして許してやれないんだと言われそうで言えなかった。そんな幸子の気を逆なでするかのような親子の行動に幸子は唖然とした。一人暮らしの幸子を気遣い食器棚や台所用品などを運んできたのである。確かに鞄一つで上京した幸子の部屋は殺風景だったが、ありがた迷惑というより再被害に等しい仕打ちで、もう制する気力すらなくあとで処分すれば済むことだとそのままにさせておいた。
ようやくこれで落ち着いた生活に戻れるはずであった。しかし悪魔との契約書が履行され始めたのである。疲れはてあんなに眠たかったはずなのに、いざ布団に入ると目が冴えてくるのである。ようやく明け方になってうとうとし始めるとフラッシュバックに襲われた。お酒を飲んでみたが効果はなく、すぐに目が覚めてしまった。
「そう、また戻っておいでね。」
しばらく単位を落とさない程度に欠席することを学校に告げた。
「では、そういうことでよろしくお願いします。」
「あんたも水臭いわね。親だと思って夜中でも何でも言ってくれりゃいの一番にあたしが駆けつけたのに・・・でも、また戻ってくるんだよ。あたし達もお客も待ってるからね。」
学友やバイト先のオーナーに挨拶をすませると幸子は空港に向かった。結局、家族で相談した結果、しばらく実家で静養することになったのだ。こんなことで田舎に帰るのは悔しかった。もしかしたら戻れないかもしれないという怖さもあった。それでも一人の部屋にいることには耐えられなかったのだ。郷愁と悔しさと複雑な思いで熱くなる目頭を押さえながら窓から地上を見下ろしていた。
第4話に続く・・・
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