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(無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月21日(日)09時34分48秒
返信・引用
  東洋の闇 「お題目」


http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Saigoku/Fujiidera.html

怠惰な仏教徒には余りある有り難い仏様ですが、仏教とは無縁の強欲な人間性の煩悩がこの様に奇怪な偶像を作り上げる。有り難い仏様と観るか、愚かな仏教徒の姿そのものと観るか、東洋はその事を問わず、もはやその判断力すら失ってしまった。

東洋は、お題目をとりわけ好みます。その中でも際立つのが、南無阿弥陀仏というお題目です。このお題目さえ唱えれば、どのような悪人だって往生できると信じています。おまけに、街の至る所には、遍く人々を救済する仏像が溢れています。どのように怠惰な人間でも、罪深い人間でも、非信仰者であっても、死の直前にお題目を唱えれば彼岸に行けると信じています。

こんな好都合な民族が、東洋の特色であるということが出来ます。中国語でいう認罪は、日本では馴染みのない言葉ですが、と言うよりは日本の仏教では考慮されない言葉であるに違いありません。日本では、 「善人なおもて往生 す、いわんや悪人をや」がもてはやされます。仏陀の七歩の意味を問うことはしません。人生を顧みてその意味を問うこともありません。仏陀の伝説の言葉「天上天下唯我独尊」の意味を問うこともしません。ただ南無阿弥陀仏とだけ唱えよと、宗祖は教えます。とてもありがたい言葉ですが、結果的に門徒を愚かな集団にと化してしまいました。東洋的な信仰の姿が、没落する東洋の姿が、千手観音をはじめとする無数の偶像の前に群れているのが、東洋の姿で有るということが出来ます。

ここでいう東洋とは、黄色人種を指しています。モンゴル系の民族です。世界の民族を黒人と白人とそして黄色人種の三大区分とすればです。仏陀は第一歩において、人間の身体の構成を歩みました。仏陀は釈迦族とされていますから、民族の三大区分からは、東洋の民族であるということでしょう。七歩を歩みきった仏陀にとっては肌の色が人種としての区分に関係があるというよりは、第五歩を歩むことの出来ない民族に誕生したということの方が重大で要るということが出来ます。没落する民族において、煌きとなったのです。

仏陀は、東洋における救世主として現れたということが出来ます。しかしこの救世主という意味合いは、 「善人なおもて往生 す、いわんや悪人をや」が意味するものとは異なります。東洋に第五歩目をもたらすものでもありません。七歩の意味に、理解をもたらすものでも、また人生を顧みてその意味を悟らせるものでもありません。むしろ東洋には第五歩目が存在しない事、四歩の内にこそ、人生の完結、解脱があると指し示したということが出来るに違いありません。

仏陀は、東洋民族の一員でありながら、七歩までを歩み切ったということを実証したということが、七歩の中の一歩であるということが出来ます。それが、東洋の希望となったということが出来ます。それを実現するものこそが、輪廻転生の教えであったということが出来ます。輪廻転生とは生まれ変わる事ですが、最初の一歩にこそ、その輪廻転生の教えが隠されています。輪廻転生するのは、実に人間の見かけ上の身体であるからです。

ですから、輪廻転生を理解しないならば、東洋は仏陀の最初の教えすら理解しなかったということが出来ます。しかしそれは無理からぬことであるともいうことが出来ます。人間の初めの構成要素である身体を、東洋は理解しませんでした。理解しようともしませんでした。その証拠が、東洋の絵画芸術の特色に読み解くことが出来ます。東洋は、肉体と生命力体と感覚対とそして自我を、夢のように感じ取っています。ですからこの四歩を東洋は東洋民族として受け取ってはいるのですが、五歩目にいたる事が出来ないが故に、いわば四歩の内で足踏みを続けています。東洋の絵画芸術が花鳥風月に留まり、人間の姿が欠けているのです。人間の姿は、自我からは観えません。集団に埋没した自我は、人間の姿を描くことは出来ないのです。ですから、東洋の絵画は、花鳥風月である生命力体の観察に留まったということが出来ます。個人というものが存在しないのです。正確に言うなら、個人の感覚体を題材にした芸術がありません。

初期の仏像には、生命力体に満ちているのを感じ取ることが出来ます。しかし時代を経るに従って、古代の東洋から、生命力に満ちた感性が失われていくのを読みとることが出来ます。この生命力体に対する感性の残照として、まるで燃え滓のように東洋の絵画芸術は花鳥風月へと向かいます。それは仏教観と一致するように、生命力体に貴賎の差別を否定し命あるものに等しく慈愛を向けます。ミミズを踏みつけないように、仏教徒は一歩一歩の歩みに細心の心配りをします。しかしながらミミズには目を向けますが、人間の感覚体には目が向きません。人間の個人の中へと踏み入ることが出来ません。お題目で留まるのです。自我と自我の対立を、東洋は避けます。自我と向き合おうとしません。なぜなら、第五歩目が欠けているからだということが出来ます。

第一歩目において、物質的素材である身体を受け取ります。第二歩目において、ミミズとも共有する生命力体を受け取ります。そこまでの世界観が、花鳥風月の世界です。東洋にはもちろん人物画は存在しますが、東洋の人物は風景に溶け込んでいます。絵画芸術は、個人の個我を描くよりは、背景に溶け込んで人間の姿を物語的に、極めて時間軸的に描きます。個人よりも、舞台であるお題目が主となります。個人よりは、村社会の中の存在が強調されます。

仏像においてすら、同様です。大仏、大日如来、釈迦如来を初めにして、日光菩薩、月光菩薩、不動明王等、等、等、枚挙にいとまがありません。これら仏像は東洋と言う村社会の構成員であって、そのスタンスは生命力体の第二歩に留まります。遍く人々を救済しますが、救済しようとするのは他力本願に堕した仏教徒です。第三歩目に踏み込んで、感覚体の世界である煩悩の実態と正面から向き合って、その自我を描写する自画像を東洋は生み出すことが出来ませんでした。没我的に、人間の内面のおどろおどろしい物との対決を避けます。この姿勢が、政治、経済、文化の根底に蔓延っています。

外交で物を言えない日本人、核廃絶をお題目としながら日米安保の核の傘の他力本願に甘える日本人、政治のビジョンを構築出来ない日本人の姿は、第五歩目が欠落した民族のありのままの姿であるということが出来ます。本能的な自我である第四歩に留まった民族は、進むべき民族の指針が存在しません。ですから、闇夜の大海に浮かぶ小舟のように風任せに漂流するしかありません。

仏陀は、七歩を歩んでから「天上天下唯我独尊」と宣言したと伝えられますが、仏陀は東洋にそれが実りの無いものであることを知りながらも、そう宣言します。それは、東洋が第五歩目を歩むことが出来ない事を知りながらも、七歩まで歩んだのと同じ意味となります。東洋が七歩を歩むのではなく、東洋が輪廻転生することによってそれが可能であると宣言したのに違いないからです。ですから、仏教と輪廻転生の教えは表裏一体のものであるということが出来ます。輪廻転生を理解しない仏教徒は、仏教徒ではあり得ないということが出来ます。

仏像は仏教徒にとって、生命体の如く存在します。命の根源であり、また命の未来です。罪功に関わらず、命を支配するものであります。ただ、第二歩目の生命力体は、時間軸に関与します。伝統という記憶の媒体であるからです。東洋では、伝統は腐敗します。四歩から五歩目へと未来が存在しないからです。五歩目という抜け道が無いことによって、窒息した容器の排水のように腐敗していきます。開かれる未来は、輪廻転生という飛躍を理解し、同情と慈悲という五歩目に足を踏み入れようとする時に開くということが出来ます。

人生とは、命の限りを理解することでより煌くということが出来ます。東洋は、輪廻転生を理解することで煌くということが出来るのだということが出来ます。東洋は、東洋を脱することによってのみ、仏陀の歩みに追随することができるということが出来ます。なぜなら、第五歩目なくして、それに続く七歩への歩みは果たされないからです。

 
 

(無題)

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 8月21日(日)09時29分15秒
返信・引用 編集済
  東洋の闇 「京都五山の送り火」
東洋が見失っても、仏陀の最初の七歩が消滅する訳ではありません。その第五歩目は、西洋民族が担うことになります。



例年、多くの人が見送る五山の送り火。それが、放射能があるとかないとかで、五山の内の一つの保存会が送り火を中止すると言い始めた。確かに、放射能を含んだ薪を燃やすのは宜しくありませんね。しかし、放射能には汚染されていないということが判明したにも拘らず、福島の松の木は燃やさないと、京都人は言い始めた。

保存会の主張には、放射能に関する何の根拠もありません。しかし、他の四山の保存会も結局は福島の松の受け入れを拒否してしまいました。世間では、京都人が福島の松を受け入れなかったのは放射能を原因とするものだとの観測がまことしやかに流れていますが、実はこれは京都村の特有の出来事であるということが出来ます。

簡潔に言えば、前例のない事は理由の如何ではなく、判断の対象にならないのです。これまでになかった事は、受け入れられない、あるいは受け入れる理由が無いということに違いありません。伝統ある村の慣例は守られることによってのみ、村人は一致団結出来るのです。団結力の強い村人は、よそ者(福島の松)を受け入れる理由はそもそも存在しません。

時間軸が支配する空間、それが東洋の村社会であるということが出来ます。この時間軸には、仏教と言う亡霊が支配権を握っています。五山の送り火にはそれぞれの保存会のメンバーがそれぞれの願いを込めた薪を積み上げて燃やすことになります。そもそも五山の送り火とは、保存会の所有物なのでありますから、福島の薪を受け入れるなら今年度は送り火を焚かないという意見が支配的であるのは理由の有る事なのです。

五山の内の一つの保存会のその主張に、他の四山の保存会は反論する根拠を持たなかったというよりは、あっさりと同意してしまいました。風評被害の加害者であるという認識よりは、伝統を支持したというおそまつさが際立つことになってしまいました。

京都に住んでいる者としては誠に恥ずかしい限りですが、同時に京都に住んで40年近くなるよそ者としては、笑えてきますね。ここで笑うことは不謹慎には違いないのですが、菅直人という個人を笑うつもりはありませんが、彼が日本の首相であることを笑ってしまうように、京都人の本性を見た気がするからです。京都人は、仏教を理解するのではなく仏像があることを誇りにします。伝統を心から愛しますが、それを優越感として利用するためだけに、伝統を利用します。これは、東洋の辿る道筋であるということが出来ます。

東洋は、仏陀が誕生後すぐに七歩を歩んだという故事を知っていますが、仏陀はどちらの方向に歩んだかを問いません。東に向かって七歩歩んだというのでしょうか。それとも西に向かってでしょうかそれとも北かあるいは南に向かって歩んだのでしょうか。東洋は、それを問うことはしないでその故事に関わる因縁がこの土地にあれば、それで満足できるのです。それが東洋の伝統の正体であるということが出来ます。伝統とは、いわば腐敗した知識です。温故知新など、幻想にすぎません。伝統は、人間の過去の遺物に過ぎません。未来は、伝統の反対側からやってきます。未知の空間軸にこそ、希望が眠っているということが出来ます。

仏教を履き違えた東洋は、遍く人々を救済する仏像を量産することで、すっかり愚かな民族となってしまいました。仏陀が歩んだ最初の七歩の意味することを考えなくても、どのように怠惰であろうと救済して下さる仏像を飾ることで、拝することで救済は約束されているのです。仏像に完全無欠な虚像を織りなすことで、信仰を履き違えてしまいました。どのような悪行を重ねた人々ですら、大日如来は人々を遍く放免し救済するものと信仰していますから、この世に怖いものなどありはしません。悪人ですら往生させてくれるのですから。

自己責任を放棄し他力本願の人間性には、判断力と決断力が失せて行くことになります。自らの思考が育ちませんから、感情が支配力を揮います。自我の育たない優柔不断の民族性が、際立つ事になります。肉体得てこの世に誕生することが第一歩ですから、生命力体、感覚体、そして自我の四歩を歩む筈なのですが、東洋はこの四歩目を成就することが出来ません。それが東洋の宿命であるということが出来ます。

ですから、今日の日本の政治、経済、文化の状況は、東洋民族の姿そのものであるということが出来ます。未来を描く能力が欠落しているのが、東洋であるからです。もっとも、中国共産党が、同胞民族を蹂躙するのは、これは未来のビジョンではありません。強いて言えば、この宿命は、輪廻の視点からは破滅のビジョンと言う意味においてのみ未来と言うことが出来ます。東洋の没落を決定づけるという意味において、中国共産党は東洋民族の主席であるということが出来ます。

その小さな流れを、この京都の大文字送り火の事件に読みとることが出来ます。本来大文字送り火に使う護摩木とは、個人の深い願いを焚くことで天にまで届けようとするものであるということが出来ます。他人が他人の願いを書き写した護摩木を焚くようなものではないのです。仏陀が歩んだ四歩目を失ってしまった東洋の民族は、これから先も四歩目を歩む事が出来ないという意味において、東洋であるということが出来ます。京都の大文字送り火保存会の人々は、一時は赤面するでしょうがそれが改まることはありません。この2500年がそうであったように、そこから脱することが出来ません。

東洋は、かつて大東亜共栄圏の幻影を追い求めました。まさしく東洋の宿命であるということが出来ます。時間軸において、支配者であろうとしたということが出来ます。時間軸から脱することが出来ないことによって、次は中国共産党がいわば東シナ海共栄圏の幻想を追い求めようとします。第四歩から第五歩へと至れない宿命によって時間軸に留まらざるを得ないのです。それが少しずつ明らかになろうとしていますが、それは東洋の本の僅かな人々の間においてのみであるということが出来ます。

東洋の未来は、認知症となった老人が、犬や猫の姿をしたロボットを可愛いと思い、それが心を癒してくれる事を喜んでいる光景に似ています。仏陀が示した七歩の意味を見失うことによってその道筋以外に東洋の宿命があり得ない事を、それを明確にする道筋は、精神科学以外にないということが出来ます。しかしながら、東洋での精神科学は輸入物に過ぎません。東洋が受け取った民主主義とは、今日の民主党の政権公約の様なものです。お題目を唱えるだけで、思想がありません。その響きは、政権公約でありながら、坊主の読経に似ています。この時間軸は停止し、東洋には洋服は、人種的な素質として合わないのです。

そして、東洋は四歩から五歩へと至れないままに成熟し、熟れた果実の運命を辿る。しかしそれは、一人の人間の辿る道でもあります。東洋は、その宿命の中に東洋のみが残すことのできる種子を落とします。それは、東洋の宿命を理解しそして正面から向き合うことの出来る人々によってのみ果たされるに違いありません。没落してゆく自らの姿から目を背けるのではなく、正しい知識としての輪廻転生を理解し、東洋の運命を受け入れる者が、未来を担うということが出来ます。

仏教は、同情と慈悲を指示しましたが、仏陀の教えは伝説の最初の七歩の理解なくしてはあり得ません。しかしこの伝説は、伝統の中で陳腐化して堕落してしまいました。仏教の重要な教えである輪廻転生を、陳腐化させてしまったからです。人間の尊厳の根拠が失われ、同時に人間の未来も見失われてしまったからです。仏陀は人間の歩む道を、誕生と同時に歩んだとされます。そしてその最初の七歩を、後に具体的な姿として私たちに示しています。東洋は、仏教によってのみ東洋であることを成就することができるということが出来ます。

 

若き女性の生きる意志としての好感

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 3月 6日(日)16時20分37秒
返信・引用
  人智学に添って 「若き女性の生きる意志としての好感」

 朝日新聞の「患者を生きる」と題した連載の最終回で、とても心引かれ印象深い記事があったので、全文をご紹介します。

「あざがあって、今の私がある」
 左の顔前面に単純性血管腫があり、毎日カバーメイクをしています。
 負い目を感じている分けではりません。素顔を知って離れるような交友関係はこっちから願い下げです。でも、やっぱり何も知らない人が自分の素顔を見たときの反応はとてつもなく怖いです。
 こういう人もいるのよと知らせてくれた特集に感謝するとともに、「やはりつらい経験もあるんだな」とも感じました。記事にあった「あなたのあざを見たくない人もいるんじゃない?」というコメントには怒りを覚えました。過去に経験した、心ない人の言葉を思い出して、不安定な気持ちになりました。
 「個性」と意識していても、100%そうは思えないのが現状です。どうにか弱い心を隠して生きようとしている自分もいて、いろいろマイナス思考になることがあります。
 でも、あざがあって今の私があると思っています。プラスです。あざのある私を知った恋人や友人に対して、「ちょっと世界を広げてあげた」と考えています。打ち明けた後はさらに深い関係がうまれます。
 将来子どもを育てるときも、「人の気持ち」を考えるきっかけになると思っています。もし子どもが「気持ち悪い」って言ったら、絶好の教育チャンスです。
 きっとこれからも気持ちが不安定になる出来事があるでしょう。でも、それ以上の支えを築いていきたいと思います。
               神奈川県  韮澤(女性)  24歳


 人間は、感情的な存在です。そしてその好悪や笑いまた怒りなど、それらはアストラル体によって引き起こされます。感情の営みは、アストラル体の活動そのものであるということが出来ます。人間の精神活動には、このアストラル体が浸透していて、動的な実体を伴っているということが出来ます。この実体的なアストラル体は、精神活動を増強させるということが出来るし、また精神活動がアストラル体を増強するともいうことが出来ます。
 このアストラル体は、情動的な要素から極めて理知的で純粋な要素まで、実に多様な面において人間生活に深く係わっています。この崇高でいてまた同時に非道であることのできるアストラル的側面は、片方において天使となりもう片方において悪魔ともなります。仏教において煩悩が形成されるのもこのアストラル体の作用であり、解脱し涅槃に向かわせるのもこのアストラル体の純化した成果であるということが出来ます。
 このアストラル体は、恐怖や憎悪といった異常な状況、それはアストラル体特有のものなのですが、そうした動的な実体を纏う能力を備えています。またそれは、好奇心や想像力の源でもあるもので、思考力の原動力でありその実態であるということも出来ます。この歯止めの利かない奔放な思考の実態が、人間に自由と呼ばれるものをもたらし、その指向性が自由意思と呼ばれます。人間の自由意志とは、アストラル体のいわば無限の能力が人間の思惟に把握される時、自由意志は個人の所有物となります。その自由意志が唯一者のものである時、もはや他人の束縛から離れその自由意志を阻むものはありません。
 それは、天においても地においても、また右においても左においても、その動的なアストラル体を阻むものは有りません。このアストラル体を阻むことができるのは、人間の思惟がアストラル体を認識する場合に限られます。このアストラル体の実態を捉えることで、思惟と一体となったアストラル的実体を、抑え込んだりあるいは観て見ぬふりするのではなくいわば分別し放出するのです。
 抑え込もうとすると、アストラル体は委縮させられるかもしれません。放出とは、怒り、憎悪等を理解して、抑えるのではなくむしろ認知し把握して培養さえすることで、それを徹底的に完全に排除するということ、それが仏教のいう煩悩の放出、解脱の意味するものであるに違いありません。このアストラル体に調節と節度をもたらせるというのは、それが出来るのは人間のみであるということが出来ます。
 私たちは本来この無限の広がりを持つアストラル体を身に纏っていますが、人間は身体的存在となることによって、遺伝的な身体と輪廻転生したエーテル体と自我によって、その思惟に閉じ込めてしまったということが出来ます。アストラル体を感じ取り自我を把握することによって、個人となったということが出来ます。そのままでは個人となったとはいえ、唯一者であることは意味しません。父母を有し、兄弟姉妹を有し、部族もしくは国籍を有し、共通の言語を有する、アストラル的共同体の一員に過ぎません。
 その文化圏を共有していることが、同調できるアストラル体を共有している成果であるということが出来ます。アストラル体を共有することで、同族意識またそれに相応した感情を共有することが出来るといえます。私たちはアストラル的な仲間であると同時に、またある場合には敵にも成りえるのです。それがアストラル体の、本来歯止めのない動的な実体がもたらす結果もしくは現象であるということが出来ます。
 私たちは、このアストラル体に天使の部分と悪魔の部分を担っています。その動的な実体は、ある時には実際天使の声となってあるいは悪魔の声となって働き掛けるということが出来ます。人間の外部から、個人のものでないアストラル体が、囁き掛けるのです。そのことを認識出来る限りにおいて、人はアストラル体の影響から自律し、意志の力でアストラル特性を区分し放出することが可能となります。
 このアストラル体の放出の意味は、人間が時間軸から空間軸へと飛翔するということなのですが、およそ時間軸が支配的であった仏教世界であった紀元前の時代から、空間軸の世界が始まった紀元後の世界において、遺伝もしくは血統に従属していたアストラル体が、自我意識によって放出されることが可能となったということが出来ます。「目覚めていなさい」と聖書で語られた言葉の意味が、2000年後の今日もなを深く空間軸で響いているということが出来ます。

 しかしながら「目覚めている」ということは、通常は苦痛を伴うということが出来ます。アストラル体そのものが、苦痛をもたらすのではありません。アストラル世界は、苦悩の世界であるということが出来るからです。このアストラル体を放出する際には、それを分別しなければなりません。分別すべきものは認識されなければならないので、苦痛を引き受けなければ、その苦痛から目を逸らさないことによって、その後分別が可能となると言わなければなりません。
 そうしたのには、理由があります。なぜなら、アストラル体と係わるということは、その苦痛と一体とならなければならないというのが、アストラル的本質であるからです。そのように語ることで、アストラル体のことを知らない人には何の係わりも無いかも知れませんが、アストラル体のことを知っている人にはそれで十分の説明になると思います。
しかしながら、人智学はそうした苦痛の本質、アストラル体の正体に迫らなければなりません。仏陀は苦痛の本質を時間軸である人間の内面に求め、西洋的智は空間軸である外的世界に人間の苦痛の解放を求めたということが出来ます。

 韮澤さんの文章からは、「あなたのあざを見たくない人もいるんじゃない?」のコメントに対する苦痛を感じることが出来ます。心魂の内面で波紋となった苦痛を、放出しようとする意志を覗うことが出来ます。それは続く文章の[「個性」と意識していても、100%そうは思えないのが現状です。どうにか弱い心を隠して生きようとしている自分もいて、いろいろマイナス思考になることがあります。]からそう判断できます。
 通常は、こうした心ない言葉を吐いた人間においても、きっと過去のある日同じような言葉を耳にし、きっと少しばかりは心が痛んだには違いないとしても、その言葉に無意識で通過したが故に、そのアストラル的痕跡が無意識なものとして留まり、その結果そうした場面にその機会を見出して無意識のまま湧出し吐き出た言葉に違いありません。醜いものと向き合うことを避けようとするのは、受動的であれ積極的であれ、アストラル体の本質的な作用であるということが出来ます。心ない言葉を罪悪感も無く投げかけるのも、また、その受動的な状況から逃避したいと望むのも、アストラル体の本質的な作用であるということが出来ます。
 しかしアストラル体が本質的に抱えているそうした好悪の感情は、それが認識され放出するために選別されるまで、「どうにか弱い心を隠して生きる」のではなく、アストラル的醜悪と向き合うということ、その試練を通過することでしか、そこに生じるであろう苦痛を通過することなしには、その「弱い心」を放出することは出来ないということが出来ます。

 人智学で言うアストラル体とは、思考、感情、気質に関するもので、人間が社会生活を営む様態のいわば母体となるものだということができます。ですから、いわゆるアストラル体とは煩悩によって占められた人間の喜怒哀楽を含むものであるということができます。輪廻転生のものとしての遺伝によって受け継いだ身体としてのエーテル体は、かたくなに個別のものから始まってそのままであろうとしますが、アストラル体は人間の現世での社会生活と極めて密接にそして柔軟に関与しますので、社会背景そのものを十全に反映します。その結果現代社会人のアストラル体は、社会が醜悪であればそれをそのまま醜悪なアストラル姿となって反映することになるのです。
 ここで、アストラル世界である悪魔的な経済システムや社会システムに目覚めることなく生きる人々は、そうした社会的に共通する一種の文化圏のアストラル体をそのまま反映することになる訳です。ですから民族毎にそれぞれ異なった文化圏のアストラル体が存在することになり、また時代毎に異なったアストラル世界が存在することになると言えます。アストラル体は保守的であろうとしますから、もっと卑近に言えば蛙の子は蛙で留まろうとするのです。
 ですから、人智学的に人はどの程度目覚めているかを測ることで、自己認識すなわち自我あるいは個我あるいは霊我を推し量ることができるということができます。その人の語る事柄が、例えば無意識に投げ出る言葉が、その人のアストラル体の目覚めの程度を自らが語るということが出来ます。

 日常生活においては、人と人はアストラル体とアストラル体で向き合うということができます。なぜなら、このアストラル体が人間の感情生活の全体を占め、アストラル世界が日常の社会生活での全体を充満させるからだということができます。
人智学的覚醒によって、エーテル体、それは思春期のアストラル体が強力なものとなる以前の、幼少期の無垢なアストラル体がエーテル体の中で安らいでいるのですが、そしてやがて強力となっていくアストラル体がエーテル体を覆い隠していくのですが、そのために、人と人との出会いが極めてアストラル的に覆い尽くしてしまうので、人間がアストラル世界にやがて翻弄されていくという意味で、人と人との出逢いは通常はエーテル体を通過してその後アストラル的に向き合うのですが、エーテル体は殆ど意識に昇らないということができます。
 しかしながら、人智学的意味において、キリスト教的意味において目覚めることが出来ず眠り続ける人はそのことを理解しません。通常の意味において多くの人は、アストラル的海で溺れることによつて、空間軸である外界が見えないでいることは確かです。それは、高橋氏の言われるように、私たちはアストラル世界でまるで魔術的な世界に生きているということができるに違いありません。そしてその無意識からの目覚めには、通常においては苦痛を伴わなくてはなりません。アストラル体の闇の世界からの苦痛、苦悩を感じることなく、アストラル的な目覚めには至れないからだということができます。
 そうしたきっかけの一つとなるものが、こういういう言い方が許されるなら、あの辛辣なそれは極普通の本能に基づいたアストラル的波紋のものですが、「あなたのあざを見たくない人もいるんじゃない?」という、無分別な言動であるということができます。
 「あなたのあざを見たくない人もいるんじゃない?」とは、目を背けたいものには目を背ける権利を私は民主主義社会において保障されていると、そうした皮相的な人間は考えるのです。ホームレスには、公園で憩う権利すら無いととうのです。なぜなら、醜悪な身なりのホームレスを「見たくない」からです。そうしたアストラル界で育つ子供たちでさえ、社会的弱者の人々を公園やそこのベンチから追い出そうとするのです。
 不潔な浮浪者、怠け者のホームレス、厄介者を町の美観を損なうからという理由から、公園から排除し、公共の場所で立ち止まることを禁止し、まさに皮相的な視界から「見たくないもの」を排除しようとする権利を、それを民主主義がもたらした個人の権利であるかのようなアストラル的幻影、それはアストラル体が時間軸において自己完結しようとする誘惑に取り付かれているからだということが出来ます
 アストラル的現実、それは好むと好まざるにかかわらず、アストラル的相互干渉から逃れられないという現実、だからこそ人はその現実に向き合うかそれともそこから逃避するかの二者択一に迫られるということが出来ます。
 先に取り上げた自殺した少年の例は、そうしたアストラル的現実から逃避して、心魂を閉ざしてしまった結果に違いありません。心ない言葉を躊躇無く投げかける人間は、人間の第二の七年期にこそ残酷さを露わにするに違いありません。きっと身近に居たに違いない心ない言葉を平気で投げかける隣人からそうしたアストラル的気分を受け取ることで、何気なくその場面を通り過ぎることで、そした辛辣な言葉を自分自身の心魂のアストラル体へと浸透させたに違いないからです。
 苦痛を認識し、そして後その内容物を放出しなかったこれら両者、自殺した少年もあるいはいじめを楽しんだ少年も、時間軸にとらわれたままのアストラル体で輪廻転生するに違いないということが出来ます。少年の母親は、出来ることならもう一度お腹の中に戻してやりたいと思いましたが、それは少年の身体のことだけを語っているに過ぎません。少年は苦痛から逃避せずにそれを受け入れることで自らを克服し、アストラル体を理解し分別区分し放出する以外に少年が自己を克服する道筋は無いに違いありません。
 この若き女性は、まだアストラル的実体に気付いては居ないに違いありませんが、苦痛を苦痛として受け取ることが、[将来子どもを育てるときも、「人の気持ち」を考えるきっかけになると思っています。もし子どもが「気持ち悪い」って言ったら、絶好の教育チャンスです。きっとこれからも気持ちが不安定になる出来事があるでしょう。でも、それ以上の支えを築いていきたいと思います。]と、正面から苦痛の本質に向き合い、自分自身の苦痛を理解し、そこからの自分を解放させようとしているに違いありません。
 苦痛の本質を理解した後、その若き女性はその苦痛の深さに応じた思いやりで、きっと子育てするに違いありません。自らが受け取った苦痛しか、他人の苦痛は理解できないのです。そのことの深い意味が理解出来るなら、心ない言葉を平気で投げかけることのできる人間の、皮相的な人間像が、どの様なアストラル的形姿を帯びているかを想像することは容易であるということが出来ます。

 人間の感受、思考、意志は、このアストラル的形姿に呼応するということが出来ます。アストラル的実体が、実際は人間を捉えるのです。人間は、自由意志を最上に位置するものと思っているかもしれませんが、アストラル体を下位に持ち合わせていると信じているかもしれませんが、人間が自然のままに生きている限りはそれは幻想にすぎません。苦悩を受け入れることによってアストラル的実質を分別し選別し、目覚めた自己によってアストラル体を空間軸に放出しない限り、いわば紀元前の時代の古いアストラル的実質に隷属した様相を帯びるというのは、人間的実相であるということが出来ます。
 紀元後となる人類史の夜明け前、時間軸に捉えられていたアストラル的実質を解放する道筋を明らかにした人物が出現します。民族的にこのアストラル的実質と最も濃密な関係にある東洋の、仏陀がその人であるということが出来ます。仏陀は、アストラル体が秘めたその実質の深い苦悩を理解し放出する道筋を解脱という言葉で示しました。この深い苦悩とそれが母体となった深い慈悲は、個人の内面の思惟に属しそして時間軸に属するものであるということが出来ます。仏陀は解脱と涅槃の道筋は示しましたが、それは個人的に属する事柄で留まろうとしたということが出来ます。
 ですから、仏教は僧院を形成し俗世界のアストラル的実質との距離を置き、俗世界との縁を切ることで解脱と涅槃の道筋を門外不出としようとしました。それらは僧院の内部においては成就されるかもしれませんが、内面の思惟に留まる限り独善的なもので留まらざるを得ないのです。
そこでは個人が獲得した智が、空間軸のものとして僧院外へと広がり、仏教が求める浄化されたアストラル的実質が、人々へと開示される道筋がありません。そこに留まる限りにおいて、僧院内の住人は、あの心ない言葉を投げかけた人物と同様に、「不浄な人間を見たくない」との言葉を僧院から外へと投げ捨て、自己満足しているに過ぎない人間と何ら変わりは無いのです。

「あなたのあざを見たくない人もいるんじゃない?」という言葉の背景にある、眠り続ける人間の共有の社会的風潮、意識、意図、それらはまぎれもなく民主主義的合理主義という美辞麗句にとって代わられることになるのですが、通常の健康なアストラル的な好感と反感が、感情の深い部分から未来の好感への確信を抱いているに違いないのです。
 しかし、『「個性」と意識していても、100%そうは思えないのが現状です。どうにか弱い心を隠して生きようとしている自分もいて、いろいろマイナス思考になることがあります。』とあるように、現代社会のアストラル世界はほとんどまっとうであることが出来ず、自らの心魂に正直であることすらが不安へと追い込まれるというのが自然な感情であるということができます。
 自分もしくは他人にあざがあることを、個性として意識することはどうすれば可能となるのでしょうか。それは何がしかのあざや身体に障害があることを、他人の負い目と見下すことで自己を肯定的に評価しようとする唯物論的な社会的価値観、それは人間を身体と精神とからのみ人間を評価することでその内面にある心魂を否定する、あるいはそれに類する歪んだ科学的合理主義が、人間の人格の本源である魂の尊厳を、それを個性(霊我)として受容するという空間軸思考を妨げているに違いありません。
 アストラル世界とは、実は学歴主義、肩書主義、名刺主義世界の虚飾嗜好でもあります。それらはいわば幻想世界であり、時間軸における過去の遺物、実体を伴わないアストラル体の残影に過ぎません。それは、時間軸に蔓延る苦界そのものであるということもできます。「あなたのあざを見たくない人もいるんじゃない?」という言葉を発する人間の苦界、それはその人物のアストラル苦界そのものでありますが、実際現実社会においてその人物におけるその思惟は、多数派が占める価値観においては正当性を得るのです。そしてそのように一度出来上がったアストラル世界は、苦界を心魂の時間軸の郷愁として現実世界から締め出すことで居心地良さを得るものですから、通常は一生を通じて他人のあざを笑い続け、空間軸的な思惟がもたらす自己覚醒へと向き合うことが出来る良心の声を完全に見失ないます。
 けれども、24歳という若さは『人が自分の素顔を見たときの反応はとてつもなく怖いです。』という感情を克服するには十分であるとはいえません。そして、その怖さ、現実的な思惟から覚醒への道筋を辿ろうとする意思だけでは、人生における現実世界のアストラル的リアリズムと向き合ったことにはなりません。その怖さと苦痛の実態と向き合った後、若い女性はそれを克服するのでなければ、社会の悪魔的な幻想の世界から目覚めることはできないに違いありません。
 悪魔的な幻想とは、時間軸に閉じ込められた思考は、保守的なアストラル体を纏った思惟は、もはや外的世界の実相に向き合おうとせず、空間軸にとって単に皮相的なものに過ぎないあざや身体的障害などを、異種異物とみなし視界から排斥しようとします。
それらは古い時代の、時間軸の時代の、空間軸時代以前のアストラル特性に属するものであるということが出来ます。時間軸の時代、人間は空間軸へと飛翔する道筋を知りませんでした。仏教の思惟は内面に留まり、血統主義を克服することは出来なかったのです。
だからと言って無理やりに個人の思惟が耐え得ることができないような苦痛を味あう道筋を、勧めることはできません。苦痛に耐え得る心構えが無いままに、幻惑に耐えることが出来ないままにアストラル世界に踏み入るよりは、意識的に心魂を閉ざしあるいは見過ごすことで日常を通過することの方が、むしろ自己に正直であり心魂に忠実であるということにおいて、良い判断である場合があるからです。
幼少期のアストラル体は、まだエーテル体の旺盛な生命力の中に埋もれた種子のように密接に結び付いていて、無垢な状態でまどろんでいるということができます。しかし、幼年期を過ぎて第2の7年期に入ると、アストラル体の泉には様々な小石、世界との出逢いが飛び込み始めます。無神経で辛辣な大人の言葉、またいわゆる学校での「いじめ」も、その小石の一撃であるということができます。
健康的でバランスのとれた感性豊かなアストラル体であるならば、その一撃が人格の質であるアストラル体の質に応じた特質、反感となった波紋となって広がり、その一撃、喜びであれ悲しみであれその感受性に比例して大きく広がるということができます。
しかしながら、時間軸の中で心魂を閉ざし保守的となって辛辣な言葉を吐いた人物においては、きっと青春時代にはあったかもしれない豊かな感性は失われ、硬直したアストラル的特質へと変性したものとなり、生き生きとした波紋を失ったアストラル体は、次第に委縮していくことになります。外界との関連が縮小していくにつれて、心魂的な自閉症もしくは心魂的認知症へと進行するということが出来ます。外的世界への関心や喜びが失われることによって、アストラル体は退化しやがて動的な活動を静止させて、見た目には健康であっても心魂的な廃人の道筋を辿るということが出来ます。
アストラル体が退化して無神経に「あなたのあざを見たくない人もいるんじゃない?」と言ってのける心魂において愚鈍となった感性の持ち主は、そのままでは損なわれた人間性を回復する可能性はありません。なぜなら、当人にとってはそれが心地よいと感じるからです。このアストラル的特性が理解できれば、他人の心魂の苦痛に無関心であることが、心魂を空間軸へと解放出来ない人生が、結局は自らの人間性を自滅へと導いていることに気付くに違いありません。時間軸の中で血統主義に拘泥する者は、家族もしくは民族など家名や民族主義に囚われ、空間軸である人間の普遍性(人間は生まれによって価値が決まるのではなく、生き様において評価される)へと至ることができません。
時間軸という一種の牢獄の闇の中で右往左往するこうした人々の姿に気付くということは、空間軸での覚醒にいたることによって苦悩をもたらすのです。心魂内のアストラル特性に気付くことが出来ずに、アストラル体の闇の部分を分別し放出出来ない人間社会の悲惨さに気付くことは、当初はそうした人間や社会に対しては怒りから始まったとしても、やがてその苦痛の先には人間であるが故に同情や慈悲以外のものを見いだせなくなるというのが、仏教が私たちに与える本質であるに違いありません。

ここでの若い女性は、『あざがあって今の私があると思って、あざのある私を知った恋人や友人に「ちょっと世界を広げてあげたい」と考えています。打ち明けた後はさらに深い関係』を望んでいます。心に生じた波紋を、戸惑いながらも知性によって心魂を整理整頓してさらにそれを力強い意志の中に組み込もうとしています。投げ入れられる様々な小石から生じる苦痛の原因を、そのアストラル的世界を思惟の力で刈り取って放逐しようとしているに違いありません。この女性は、初歩的であるとしても仏教的道筋から空間軸世界へと辿り始めようとしていることを予感させてくれます。
そして、『将来子どもを育てるときも、もし子どもが「気持ち悪い」って言ったら、絶好の教育チャンスです。』とその意志力は血気盛んのようにも見えますが、『きっとこれからも気持ちが不安定になる出来事があるでしょう。でも、それ以上の支えを築いていきたいと思います。』と結んでいます。
 『それ以上の支え』とは、何なのでしょうか。それは打ち明けた後の『さらに深い関係』に違いありません。しかし、どのように深い関係なのでしょうか。
 アストラル体は、感受魂が繊細で柔軟であればある程波紋も大きなものとなるということができます。それは、苦痛を伴う半面、喜びをも伴うということができます。アストラル体は、波紋となって世界を映し出す心魂の鏡であるということが出来ます。それは、社会全体がもたらす人間的な様相の写し絵であるということができます。
 学歴主義社会、官僚主導主義社会、資本主義社会を、民主主義が、時間軸の中で唯物主義へと偏向したアストラル特性によって、人間関係に修復不能な混乱をもたらしてしまいました。社会組織が巨大となるに従って、形式主義が蔓延し個人的人間性を抑圧し始めます。官僚主義が、幅を利かせて人間性を蝕んでいきます。このように変貌したアストラル世界は、時間軸に閉じ込められることで、空間軸世界で「さらに深い関係」が生じる可能性を失わせてしまいます。
 肉体的外見からではなく、人間の内面的実相に向き合うことでのみ、人は人をより全人格的に評価できるということが出来ます。身体のみに因らず、エーテル体のみに因らず、そしてアストラル体のみに因らず、また身体とエーテル体のみに因らず、また身体とアストラル体のみに因らず、そして身体とエーテル体アストラル体のみに因らず、自我、それは個我でもありまた霊我でもある、人間性、それらは時間軸の思惟から飛躍して、空間軸から人間の普遍性を問い掛けることで、人は人間のアストラル的実相に迫ることができるに違いありません。

人間は、魂においてのみ唯一者となることが出来て、自由を獲得した意志力によって、アストラル的変貌、自己変性の道を辿ることが出来ます。この意志力は、アストラル体に特有の熱をもたらせるということが出来ます。こうした熱は、硬化しようとするアストラル体を柔軟にして、感性を柔軟にし、人間性の変容を可能にするということが出来ます。
 時間軸に囚われている自らが、いかに心魂的な貧者であるかという認識、それは目の前の現実から逃避したり日常を無意識で通り過ぎてしまう苦痛の無い日常からは、自然発生的に生じることは有りません。苦痛を空間軸へと投げ出すことによってのみ、初めて他者の苦痛を受け入れて分かち合うことが可能となります。他者の苦痛を理解する時にのみ、その苦痛が空間軸に存在する他者の心魂あるいは精神的貧困に気付かせるということが出来ます。その時、同情が芽生え慈悲が芽生えるということが出来ます。
 仏陀の時代において思惟は、個人の時間軸に属していました。思惟が空間軸へと投げ出されることによって、隣人関係が開かれそして生じます。時間軸に添う仏教は、仏教改新のために新しい要素としての空間軸を必要としていました。それは、僧院の門戸が開放され、小乗仏教から大乗仏教へと変化せねばならなかったいということに類似します。

 人間が自己変性しようとする際に、アストラル的歪みを解消しようとする際には、特有の熱と特有の苦痛を伴うというのが、人間の秘密であるということが出来ます。『もし子どもが「気持ち悪い」って言ったら、絶好の教育チャンスです。』という若い女性の言葉には、世界が絶えず変容していくだろう可能性を秘めているということが出来ます。
 シュタイナーは、女性の持つ柔軟なアストラル体と能動的な素質に、受動的で強硬な素質の男性よりも未来社会への現実的な牽引力を見詰めています。男性の方が筋肉質である分、よりエーテル的でそしてよりアストラル的であるということが出来ます。男性はアストラル世界との濃密な関係の分だけより密接に特定のアストラル特性に受動的であるということができます。
 この若い女性は将来子どもを育てる時、子供があざを気持ち悪いと言った時、そのチャンスをどの様に生かすのでしょうか。その身体上の異質なものを気持ち悪がってはいけないと教えるのでしょうか。それとも、それがその人間の価値を決めるものではないと教えるのでしょうか。
 異質なものを気持ち悪いと感じることを悪いことだと教えて抑え込むのではなく、何故気持ち悪いと感じるのかという思いをしっかりと受け止めてから、それが人間の価値と何の係わりも無いという思いを吐き出させることが重要なのです。自分の心魂の在り方、そのアストラル特性を放逐することで、子供自身が空間軸から自らを客観視できるようにアストラル体を時間軸から解放することが必要であるということが出来ます。
 しかしながらこの女性のように「気持ちが不安定になる、それ以上の支えを」と望むものとは、その支えとなるのは、空間軸に投げ出された同情と慈悲、それを隣人と分け合うことに未来の全てが、そして人間の覚醒が託されて、そしてそれに負うということが出来ます。
仏教は、人間の内面の思惟という時間軸の中で完結され、そして後仏教は空間軸へと解放されることでキリスト教に改新されたということが出来ます。時間軸の中で停止したアストラル体は、過去の記憶の最も甘美なアストラルイメージを想起させ、閉じられた時間
軸の中で自らを栄光と富と権威とで満たそうとします。そこでは、空間軸の隣人関係における同情と慈悲もまた自己変容という未来も必要としません。

「あざ」ではなく、冒頭の短い文章から、時間軸から空間軸へと飛躍しようとしている若い女性の姿を想像することが出来ます。きっとこの女性は、自分の子が「あざ」気持ち悪いと言った時、泣き出すかもしれません。どの様な言葉よりも、子供は自分の言葉が母親の目に涙を流させたことを後悔するかもしれません。
東洋は、時間軸を主軸とする民族であるが故に四苦を受け取ったように、その先にあるものを探します。しかしその思惟は、思惟の中で留まろうとします。空間軸への衝動がありません。唯一その衝動となりえるものは、時間軸の中で熟成される心魂の苦痛であり、そこに生まれる同情と慈悲であるということが出来ます。この同情と慈悲が空間軸へと開かれる時、それは隣人へと向き合うことが出来るということが出来ます。
母親の涙を観た子供は、その先にあるものをきっと探すに違いありません。どの様に教育的な言葉よりも、子供の中に芽生える母親ヘの深い同情こそが、涙の意味を理解させてくれるに違いありません。その母親への同情は、やがて隣人に対しても同質の同情として育ち、母親の苦悩を理解するに従って隣人の苦悩を理解するに違いありません。そしてその子供は成人し、苦悩の深さに応じて空間軸の中で他者の苦悩を観い出して行くのに違いありません。そしていつしか自分の母親を苦しめたあの辛辣な言葉を吐いた人間にでさえ、同情と慈悲しか見い出せない自分に気付くことになるのかもしれません。

「心の支え」を求めることは、輪廻転生を正しく受け入れることだということが出来ます。「生きる意志への好感」は、仏教がキリスト教によって更新されたこと、時間軸が空間軸に組み込まれたことによって、内面の思惟が空間軸へと飛翔したこと、それはとりもなおさず、アストラル体を認知し分別し放出することに掛っているということが出来ます。心魂の中から「気持ち悪い」と思わせるアストラル体を放出することにおいてのみ、アストラル体に自己変性が生じる時にのみ、そのことに確信が持てる時にのみ、輪廻転生の意味を空間軸の中で正しく理解することが出来るに違いありません。
 

少年の自殺

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 3月 2日(水)14時33分35秒
返信・引用
  人智学に添って 「少年の自殺」

 仏陀が、当時輪廻転生について多くを語らなかったのだということが、それがベターな選択支であったことを、そしてそれが結果的に正しい判断であったことを後世の人智学は今よりもさらに評価するに違いありません。東洋に最も身近でありながら、最も危険な思想となりかねなかった輪廻転生の教えは、仏陀の死後約2500年を経た現在も東洋での理解は殆ど当時と変わらないままであるということが出来るに違いありません。
 人間の実相である、肉体、エーテル体、アストラル体、そして自我、仏陀が誕生と同時に歩んだとされる七歩の内のこの最初の四歩ですら、2500年後の今日の私たちが歩めない現実と向き合うのは悲しいことであるということが出来ます。そしてその原因の多くを、輪廻転生を理解しないにも拘らず、民族的に輪廻転生を受け入れやすい体質、それを理解できる素質を備えているということが、その長所が短所となってしまったという事実に気付くというのは東洋にとって重要であるに違いありません。
 仏教的世界観は、東洋にこそ花開くべきでありながら、同時に仏陀は、東洋での落日の煌きであったというのは、東洋の明と暗の部分であるということが出来ます。それは輪廻転生の思想は、落日の中でのみ燦然と煌くのだということを意味します。さもなければ、落日の中で煌きは闇に包み隠されてしまうのです。東洋は、自らが落日の中に佇んでいることを「正しい意見」で捉えない限り輪廻転生の法輪を正しく受け取ることが困難であることを、自覚すべきなのです。
 地中に生き埋めになる即身仏や、小舟で太平洋を漂流する補陀落渡海上人等は、仏教者の歪んだ姿であるということができます。自殺は、キリスト教も仏教も厳しく戒めています。仏教は、自殺ではなく「四諦」と「八正道」を伝えたにもかかわらず、歪んだ輪廻転生の思想は、東洋に生である明の世界よりも暗である死後の世界を、落日の中へと引き入れようとする、ということが出来ます。
 仏教も、輪廻転生の教えも、これらは思想ではありません。本質的に、人智学と同質のものであるということが出来ます。仮に仏典や聖書に例え話が記されてるとしても、それは物語や例え話が本質なのではなく、人智学を言葉で語るのと同質であるということが出来ます。
 人智学は、世界と人間の謎を解くツールであっても、それが目的とはならないようにです。「四諦」や「八正道」は、涅槃に至るためのツールであって、修行が目的とならないのと同じであるということができます。地中に埋められた僧や、大洋を漂流する僧が、大衆を救うことなどあり得ないのです。そうした御利益を求める大衆が、仏陀の「四諦」や「八正道」を受け取る筈もないのです。
 自力本願ではなく他力本願である大衆が、仏陀の法輪を受け取る筈もありません。なぜなら、法輪は「四諦」と同じく、開眼して会得するものであって、眠りから覚めて「覚醒」することに他ならないからです。しかし落日の民族である東洋は、まだ深い眠りの中にあります。農耕民族として、大地と深いかかわりの中で生きてきた民族は、アストラル世界よりはエーテル的世界と深い結びつきを保ってきました。

 仏教が最も発展した奈良、平安時代の仏像芸術においては、日本人はまだ人間のエーテル体に深い眼差しを向けていたということが出来ます。西洋の絵画と東洋の絵画を比較すると、西洋はキリスト教と結び付いた人物の姿がラファエロなどに観られるように純化されたアストラル世界を描き出すのに対し、東洋は自然である山河花鳥風月の躍動するエーテル世界を描き出しているということが出来ます。エーテル界を描写する手法としては、水墨画が適していました。アストラル体は人間の気分次第で目まぐるしく変動するのに対し、エーテル体は人間の感情ではなく大地との係わりのように重厚でより本質的な生命の動きそのものであるからです。
 大自然との深い係わりは、生死と直結した死生観をもたらします。感情的な世界であるアストラル世界よりも、も、生と死あるいは明と暗である動と静の世界観、それは日本特有の文化をも育んだ書院造の建築様式や長沢芦雪(18世紀水墨画家)の襖絵「虎図」などを輩出します。東洋は、アストラル世界に背を向け、エーテル世界に向き合うことを好んだということが出来ます。
 エーテル体は、アストラル体よりも多くを語りませんが、生と死の狭間により近いということが出来ます。東洋のアストラル体は、西洋に比べると色褪せて見えます。西洋の音楽が交響曲であるのに対し、東洋は琴や尺八の音楽が似合うということが出来ます。その音楽は華やかではなく、消え入るように静かであることによって、静謐な世界が似合うということが出来ます。
 洋の東西を問わず、アストラル体は抑圧されてはならないものです。そのことを仏陀は「八正道」の中で語っていますが、東洋は血縁に固執することで時間軸においてのみ善悪、正邪に固執し、本来は空間軸に生きるアストラル体を自ら窒息させていくことになります。アストラル的世界の本質である欲界が、本性を発揮するのです。


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 以下は、一人の少年の自殺に関する記事からの抜粋です。

「生きていることに、訳が分からない不安があります。両親や学校に何の落ち度もないことは、自分が一番よく分かっております」
 2010年11月23日朝日新聞「自死で子どもを亡くした親の会」の記事で、16歳の少年が自殺し遺書となった文章です。
 また以下は、同じ記事にある自殺した少年の母親の言葉です。
 「息子はガラスの心を以って生まれてきたのだと思う。ひびの入ったガラスはもろいもの。もしあの子をもう一度おなかの中に入れられるのなら、ひびの入りにくい丈夫なガラスの心を持たせて、この世に送り出してやりたい」
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 唯一者という名の覚醒に目覚めると、孤独を引き受けなければならないということを見てきました。しかしその孤独は、疎外感のある孤独とは違ったものであるということができます。例えて言えば、裏山の頂きに立てば、周囲に更に高い山々が聳えているとしても、とりあえずはその者の視界を遮るものはその小山には無く遠くの頂きを眺望できるということができます。遮られることのない見渡す限りの自分だけの世界が広がるのです。そして同時にその者は、そこには自分以外の誰もいないということ、そこは小さな頂上であっても、あたかも断崖絶壁であることに気付きます。そこには自分しか居ず、その視界に映る世界を共有してくれる者、頼るべき誰も居ないのです。しかしながらその孤独と恐怖に耐えた後、外界ではなく自らの内面に視線を転じた者は、やがて自らの内に自我が在ることを知ります。
 しかしこの少年は場合は、違っていました。少年は孤独であるという点においては同じであったかもしれませんが、その視界に映ったのは広い青空や山々ではありませんでした。星空もない闇の世界だったに違いないのです。少年には明確な恐怖も孤独も無く、従って明確な視線を自らの内面に転じることもできませんでした。
 覚醒に応じた世界の眺望とその広さはそれぞれ異なったものであるとしても、せいぜい裏山の頂きに過ぎないとしても、遮ることのない視界には富士山だって映るに違いないのです。しかし少年には闇の世界が広がり、その苦痛を共有できる誰もいませんでした。心を閉ざしてしまった少年には、世界がどれほどすばらしいものであるかを、どのような雄弁家が語り伝えようとしても、それらの言葉は少年の心に届かなかったに違いないのです。
 一生懸命に勉強をして、立派な社会人となることを説く両親や学校を何の落ち度もないと感じつつ、しかしながらこの少年はそれを信頼できなかったに違いないのです。いい学校を卒業して一流の会社に就職して欲しいと望む両親に、そんな価値観以外の違った別の人生を望んでいるということを、彼は明確に理解することもまた誰にも伝え得なかったのかもしれません。少年は自分が自分であろうとしているだけなのに、そうすることがまるで罪悪であることのように感じていたのかもしれません。
 多感な頃に絶対音感を得た者はそれを忘れないように、不協和音を植えつけられた者はそれを忘れることができないというのもまた事実であるに違いありません。単なる記憶としての知育で世界と向き合った者は、世界と感動によって向き合う者だけが獲得することのできる心魂の豊かさを知る機会を失った者は、それらを彼らは大人になってから取り戻すことはできないに違いないのです。知情意が豊かに育った者と、単なる知識を獲得することで満足する者との差は、生涯に渡って人生の方向そして健康面までもを違えて行くということができます。
 では、現代アカデミズムがもたらした教育システムは、子供たちの未来世界にどのような功罪をもたらしているのか、あるいはこの少年のように心魂の悲鳴と自殺をもたらしたのは例外的な事例であったのでしょうか。
現代の心理学では、自殺した少年の心の中に立ち入ることはきっとできないに違いありません。そしてその母親も「丈夫なガラスの心」がどのようなものなのかを理解しなし限り、自殺する若者の心に近づくことはできないに違いありません。現代文明は、人間から心魂を取り去ったことで肉体の健康と知育を求めているのです。
 こうした文化では、地位や富、知育格差による学歴が人生のステータスとなって人間の階級制度が確立させ、生身の人間としてエーテル体やアストラル体に尊厳を求める者は誰も居ないのです。人々は学歴をひけらかし、社会的ステータスと肩書をお互いに褒め称えるのです。人は生まれや育ちで価値が決まる訳ではなく、その内面から響く言葉と行為によって決まるのだという、仏陀の言葉はもはや響かないのです。

 少年は、孤独となり周囲を見廻して、何ら落ち度の在る責任ある誰かが見当たらないにもかかわらず、訳のわからない不安が少年を包み込み、そして人生に希望の光を見いだせなかったに違い無いのです。もはやこの少年には、両親や学校やその仲間からの言葉は、自殺を引きとめる動機とならないのです。誰の落ち度からでもなくも、生きる理由が見いだせないのです。少年の自殺の原因と訳のわからない不安とは何だったのでしょうか。その問いに答えを求めるには、少年の言葉に本来前後にあるべき言葉が欠けているということ、少年が言葉にしなかった言葉が何であったのかを理解する必要があるに違いありません。
 皮相的な社会は、自殺相談書が果たす役割を過大評価します。愛情を伴わない乳幼児育児が、乳児を高死亡率から救い得ないように、生きる希望を持てない心魂に救いの言葉を投げかけられません。乳幼児が生きる希望と成り得るのは、アストラル光の煌きであるということが出来ます。外界に燦然と煌く、母親の体温であり言葉(音楽)であり、色めき立つ光彩なのです。
 人間が文化的発展と信仰する文明社会の実相は、アストラル的観照からすると後退と退化として映るということが出来ます。もちろんそれは、文明の利器を指すのではありません。例えば、人間の職業が専門分野へと先鋭化するに従って、人間はアストラル的に孤立するようになります。お互いのステータスが単細胞化するに従って、人間全体の観照を見失っていきます。いわば、心魂の分裂化が生じるのです。そうした心魂は、不協和音で悲鳴を上げることになります。
 少年は、きっと瞬間的にアストラル世界に足を踏み込んだに違いありません。そのようなことが言えるには、理由があります。人智学見地に立つなら、少年がこの世界に存在したように、少年の短い言葉の前後には少年の心魂の隠れた言葉の部分があって、それは少年の知情意というものですが、それがこの少年の心魂の大部分に不安というアストラル的実相が占める様になって、そしてその言葉の前後には少年を自殺へと追い込んだを動機があって、それは少年の人間性というか心魂の反感と好感の部分、それは本来のアストラル的煌きとしての魂の叫びがあったに違いないからです。

 『「我々は事物を観照し、しかして後これを抽象化して表象を生むのである」と心理学が繰り返して説明しているのは、人間の犯す大きな誤りであります。』は、シュタイナー著 一般人間学 新田義之訳 第二回の34ページの言葉です。こうした見解は、現代社会の断面を象徴しているということができます。
例えば殺人事件の原因を怨恨によるものであるとか、例えば自殺の原因は貧困によるものであるとするような、皮相的な原因と結果で現代社会では多くの人々が人間を肉体と精神からのみ判断する皮相的な理解を、現実的で真実なものとして受け入れようとするのです。「相手の人間を観照し、しかして後、貧困や怨恨から殺人を犯すのである」とする現代心理学からでは見えない部分があります。もしそれが真実であるなら、ミルクしか与えられない乳児もきっと育ったに違いありません。この少年も自殺せずに済んだかも知れません。
 ですから、この少年の少ない言葉から現代心理学は少年の自殺の原因を見出すことはできないというのは、少年の言葉の前後に何かが欠落しているということが考慮されない結果であって、その部分だけから少年の自殺の何らかの原因と結論を求めようとする現代心理学では、少年の心魂の訳のわからない不安に迫ることはできないということができます。
少年の自殺は「生きていることに、訳が分からない不安」であって、両親や学校に何の落ち度もないと思っていたのであるから、それは少年自身の個別の問題であって、学校や社会や教育システムとは無関係であるとして捉える事が、アストラル的に分裂した現代心理学が導き出す結論として留まるに違いないのです。

 人間を考察するには、特に現代社会のように人間を精神と肉体からしか考慮しない現代心理学がするような皮相的な観察からではなく、現実の人間を観察するには「事物を観照し、しかして後これを抽象化して表象を生む」部分だけではなく、観照する原因とその未来にもたらす表象としての意志を同時に観察するのでなければ、つまりアストラル体の実相に迫らなければ、人間の実相に迫ることはできません。
 人間の実相を考察するには、人生における現在は人間が誕生する以前の過去からの継続であり、またそれは人生が未来へと継続して希望となるものであるという、人間の心魂をアストラル的真相に照らし出す必要があるのです。人生の実相というものが過去と未来を同時に共有するということの事実を深く考察するなら、この少年の言葉には当然あってしかるべき過去と未来が欠落していることに気付くことができる筈です。それは少年の知情意からやってくるものとしての、怒りあるいは悲しみとそして未来への苦悩というものである、少年の心魂が覗き見たアストラル世界と少年が置かれた状況に関する事柄についてです。
 これは、現代心理学のように人間をこの世限りの存在として捉えるのではなく、現在という時空が過去から未来へと継続するものであるように、少年にとってはこの14年間の人生の過去と現在のみが存在しているのではなく、少年が無意識に背負っている人間存在そのものの心魂的な過去の原因としての遺伝形質、あるいはまた少年の未来の萌芽としての霊我を含む人間存在の意義としての原因を考察する人智学的論考に関するものです。この考察によってしか、少年が感じた誰の落ち度でもないものから来る訳のわからない不安の深層へと至れないに違いありません。これを仏教用語で表すなら、十二因縁の第八番目の「渇愛」、生まれ出ることへの渇き、これは輪廻転生の要素でしょうか。
 何の落ち度もなくそこからやってくる不安は、アストラル的なものであるということができます。現実にはアストラル世界が生きていて、人間社会は人間特有のアストラル世界で満たされているということが出来ます。言葉を発する以前の存在として、学校の教師も、両親も、血縁の無い他人も、社会を構成するアストラル世界の構成員であるということが出来ます。この少年が、このアストラル界から断絶し孤立し無縁であり得ることは不可能であるということが出来ます。
 シュタイナーの一般人間学では、人間は生得的なものとして生命存在を秘めたものとしての概念(前世のものを含む過去の記憶)と意志(生命存在として受け取った世界への好感)を有しているといしています。この概念に冒頭の少年の心の言葉を当てはめてみますと、少年の反感もしくは苦悩で自殺の原因となった少年自身の叫び(苦悩)、感情の表出としてのしかるべき言葉、少年が抱いていただろう両親や家族に感じていた愛情としての好感、自己と世界との有機的な未来への意志(ファンタジー)、そうした少年の言葉(あるいはその言葉が有している本来あるべきアストラル体の残影)が、欠落しているといえます。
 少年が本来有していたであろう人間的素質(愛憎)が失われ、少年らしい世界に対する喜びや夢ばかりでなく、少年の残した言葉からは、失望すらが欠落しているということができます。ですから、この少年には「誰の落ち度からでもない不安」が、実はこの少年の世界に対し喜びによって向き合いたいという無意識の願い、そしてこの世界が喜びに足るものであるという実感と確信を、獲得することができなかったという無気力さの原因を、彼は理解することが出来なかった、それを学び取る機会を偏差値信仰の教育現場が奪い去ってしまったということを、彼はまだ理解できなかったのだということができるのです。

 それが何を意味しているかを人智学的に捉えると、少年がもって生まれた人間性と、そして成長に伴って育んだであろうファンタジーが、学校教育の現場で破壊され欠落させられてしまったに違いないことになるのです。それは、現代心理学が人間は生まれ変わるものであるという事実を認識できないとしても、生来としての賜物であるエーテル体やアストラル体の人間的実相を理解できないことに因ります。人間存在の詳細な観察から人間がもって生まれた個別の遺伝形質を以て人間存在の肉体へとエーテル体が内部から働きかけ、成長していく未来への人間性がやがて所有するだろう世界への愛着としての愛情が育まれた結果としての好意好感もしくは希望を、心魂を理解しない現代文明社会の無知が、少年の内にまだまどろんでいた人間的な尊厳を、少年のアストラル体から生起と気力を奪い去り、そのことによって少年の心魂を委縮させ殻に閉じ込めてしまった結果であるということができます。
 少年は公教育という偏狭な支配的システム、貧弱な心理学がもたらす単なる知識の詰め込み教育、強制的な知育教育という知的暴力によって、対抗できない暴力として、少年がもって生まれた情緒、世界への親愛感情を破壊し、そして自己自身を見失わせた結果として不安のみを肥大させ、世界に対する反感(仏教用語十二因縁でいうところの名色)からの怒りすら失っただけでなく、その少年が種子として秘めていたであろう未来へのファンタジー(希望)を見出せず、皮肉にも人間を育てるべき教育が、少年を少年の人格(音楽)を破壊させて彼自身の手で未来を放棄させる結果に追いやってしまったに違いないのです。
 現代の教育システムばかりが問題なのではありません。このシステム(集合意識としてのアストラル体)は、心理学が繰り返している大きな誤りに気付かない人間(時代)が構築したものですから、この誤りに気付かない社会全体が問題であるということができます。だからこそシュタイナーの教育学は、子供の個別のエーテル体に添うように導き、そして道徳によってアストラル体を自己管理できるように育て、知情意が全体となって生き生きと統合できるためのファンタジー、このファンタジーが世界に対する好感となり、また喜びと共に生きる意欲(世界との共感)となることを重視しているのです。
 単なる学習、それは知情意に働きかけることのない記憶に過ぎない詰め込み教育の道筋に立つ学習の戸口に立ち、アストラル体を感知出来ない教育者は、人智学が示す教育概念(シュタイナー教育)に至ることは困難であるに違いありません。しかしながら、本来として人間は、人智学を知らずともそこへと通じる直観からの戸口に立つ存在なのだということができます。人間が肉体と精神のみから成る存在でなく心魂を併せ持っているということを否定する文化にも拘らず、エーテル体が人間存在の原因と未来の肉体を構築するものであるという事実が存する限り、現代アカデミズムがどのように物質的な証拠を要求し人智学的事実関係を否定しようと、真実を奪い去ることはできないのです。
 子供たちのファンタジーは、幼くて可塑的であるが故に容易に奪われ失われてしまうような、世界への好感と無私の愛情という純粋なアストラル体としてエーテル体の中でまどろんでいるということができます。このファンタジーの力こそが、アストラル体を保護し養育する環境に因って、やがては成人した子供たちが偏差値万能の教師を同情と慈悲の眼差しで貫く力となるに違いないのです。
 しかしながら、現代社会の多くの人々は精神を病み統合失調症を引き入れ、いわば不協和音で満たしたアストラル的環境で子供たちに向かい合うために、多くの場合就学以前にすでに持って生まれたアストラル体としての協和音を不協和音へと撹乱されているのです。

 少年の母親は、「もしあの子をもう一度おなかの中に入れられるのなら、ひびの入りにくい丈夫なガラスの心を持たせて、この世に送り出してやりたい。」と望んでいます。母親の想いは、もう一度生まれた当初からの人生を取り戻させてやりたいというものに違いありませんが、「ひびの入りにくい丈夫なガラスの心」とはどのようなものなのでしょうか。今母親が受け取っている悲惨と苦痛に耐えることのできる強靭な心を持たしてやりたいと、母親は望んでいるということでしょうか。ならばこの母親の思う悲惨と苦痛とは、何なのでしようか。そしてひびの入らないガラスの心とは、どのようなものなのでしょうか。
「訳が分からない不安があります。両親や学校に何の落ち度もないことは、自分が一番よく分かっております」という言葉を残して自殺した少年の感情に、この短い文章からさらに深層へと立ち入ることを試みてみたいと思います。
 16歳といえば、性的に成熟する頃で最初の模倣する7年期を脱して自分で物事を判断する時期を過ぎ去り、そして世界との対峙関係、それは世界と自我との関連を構築しようとする年齢を既に過ぎ去っているということができます。その瞳には、本来ならば意識するしないに拘わらずエーテル的な世界、他者との有機的な望ましくは信頼関係が広がっている筈であります。しかし、有機的なエーテル的観照は、通常はその年代で確信的に認識されることはありません(一部の直観力を持つ子供たちを除いて)。せいぜい異性に目覚め有機的な関係確立を求めるという抑えがたい世界への関心、愛着が、正常な性的成熟であるということができます。性的成熟とは、霊性が身体的に社会の中で自己実現しようとする試みであるということができるからです。四肢を含む人間の身体の全てが活動する中に生きる、活動している姿としてのエーテル体が、自己実現を求めるということは、究極的には霊的成長を求める活動そのものということに違いありません。私たちは根源的に、自らが誕生を求める霊として生(自己実現)を受けたように、また他の霊達にも奉仕する関係的存在であるということが、人間であるということに違いないからです。私たちは、常に自己の霊的存在が他者の霊的存在と世界を共有しているというのは、人智学的認識であるということができます。私たちは、仏教的四諦と輪廻転生とを明確な確信で受け入れることなくしては、人智学の本質には迫れないのです。

 エーテル的な学童の瞳には、無垢なアストラル的視力で捉える学校で教壇に立つ無機質な教師の姿が映ります。この教師は、生徒を学力の点数(偏差値)でのみ評価しようとする歪んだアストラル体と強圧的な姿で君臨しようとします。この教師の権威は、偏差値を宣告する権限によってのみ成立します。周囲の友人もテストで高い点数を得ることだけに、血眼になっています。教師も生徒も、偏差値で人間を差別することが当然であると思っています。そうした強圧的な教師のアストラル的形姿は、第2の七年期に入った頃の児童の瞳には本質的には不快感をもたらします。しかし無意識ではあってもこのアストラル的残照がやがて児童からファンタジーの芽を摘み取っていくことになります。ファンタジーを見失い、外的アストラル的な影響を強く受ける子供たちは、早熟するということができます。アストラル的後退と退化の道筋を辿り始める結果、唯物主義的傾向が強化されます。

 家庭ではどうでしょうか。父親は、大多数が企業戦士であることを強いられます。母親は、きっと子どもたちの学校の成績だけが心配の種となっているのに違いありません。早熟は、そうした周囲からのアストラル的影響を強くもたらします。父親にも母親にも子どもたちの瞳の奥には、世界と喜びで向き合いたいという熱い心魂が隠れていることに気付きません。代わりに損得の感情が、利害勘定がアストラル体を捉えます。
 そうした世界と対峙するアストラル的残照のある少年の瞳には、アストラル的世界が意図的に攻撃的に迫ってくるように映ります。強化されたアストラル体は、少年の意識に不安を広げ、世界から喜びの光景を奪い始めるのです。まるで催眠術に掛けられたかのような点数至上主義の社会、悪魔的な経済主義世界が、アストラル的破壊力をもって人間の尊厳を破壊し尽くしてしまうような荒涼とした世界を広げます。そして決定的に少年の最後の希望を打ち砕く光景となったものは、当初からの違和感としての不安の世界が、社会にも学校にも何の落ち度も無いと思わせてしまったこと、アストラル世界は自らを欺くのです。その結果、少年は別次元のアストラル的世界の存在に気付かなかったことであるに違いありません。
 少年のアストラル体は、外部から押し寄せる力によって、自らを自己実現する道筋を見い出せなくなります。自我を見い出せないことが訳の分からない不安として、少年のアストラル体は不調和に陥ります。それを明確に意識することはなくても、少年の存在としての原因と未来は、必死に正常でありたいと望み、不調和に対しては無意識で戦いそして苦悩していたに違いありません。エーテル体が、正常である場合においてはです。
 そんな時は、訳も分からず突如として涙が流れ出るということがあります。霊性に対し、心魂が泣き叫んでいるということができます。身体が、アストラル体の不調和を感じ取っているということが出来ます。
 こうした多感な少年にひびの入らない心を持たせるために、母親は果たして何ができるのでしょうか。転んでも、泣かないで立ちあがる少年にすることでしょうか。いじめに対し毅然と対決し、相手を殴り倒して帰ってくる少年にすることでしょうか。それとも悲惨と苦痛を回避し無関心であることで何事もなくその前を通り過ぎようとし、目の前の大人たちのアストラル世界と懇意な仲間にとなることを願ったのでしょうか。

 もしかすると少年は、知情意のバランス感覚を失うことで、ある意味での覚醒が生じたということができるかもしれません。幼い魂が催眠術に掛けられたように人間の尊厳を踏みにじられようとすることは、それは一種の狂気に似た覚醒であって、そこへと追いやる社会の大多数の住人と学校、もしかすると両親をも含めて、自らではなく目の前の圧倒的な世界が正常さを装い、そこに何の落ち度もないと映ったのかもしれません。
 ひびの入らない心は、そのようなガラスは存在しません。母親は存在しないものを子どもに与えてこの世に送り出すこともできません。心に深いひびが入ることがあったとしても、人間はその度毎にそれを修復していくのです。心が受けた自らの傷を修復する能力を、子供の知情意を大切に守りそして育み支えることで、それを可能とし、ひびを修復する能力を獲得したガラスは更に力強いものとなっていくのです。

 人間が輪廻転生する存在であることが基本認識となるのでなければ、人智学が語るエーテル体やアストラル体そして自我の様々な区分は、単なる記憶としての知識であることを超えて行くことができません。仏教経典がどの様に複雑で膨大な記録のものとなったとしても、図式的に記憶する単なる知識は、皮相的な世界の知識で留まり続けます。動的でなく静的な記憶で硬化した人間のアストラル体には、メタモルフォーゼは到来しません。それが、世界に悲惨と苦痛を温存させ、心魂の分裂、人間性の統合的失調を増大させることになります。鬱病は、確実に増大するということができます。
 人智学教育に携わる人々においてさえ、人智学が単なる知識に留まり人間の学問となることは困難であるのは、ファンタジーが失われ、日常生活において血沸き肉踊るようなアストラル的感動を失ったからだということができます。人智学の書物から智を漁るだけで、人間存在としてのアストラル的な動的な作用、外的世界と自己との動的な関係のバランス、アストラル界を体感するという感動が失われるなら、人智学はそこで決定的に死んだ知識で留まり続けるのです。
 シュタイナーが提唱する人智学教育が、子どもの素質を余すことなく伸ばし、アストラル体を道徳的に育て、人生の未来へと繋がる意志を豊かに育てることが可能となるなら、感受性豊かであるが故に少年を自殺渦へと誘い込む機会から救い出すことによって、こうした少年こそが未来の良き教育者となる可能性を秘めていたのかもしれません。

 シュタイナー学校教育は、当面の課題として未来のシュタイナー学校の教員を育てるところから始まるのだと認識することが重要であると言うべきでしょう。なぜなら、エーテル的観照を有しない社会は、子どもの個別の素質と可能性、アストラル体を十分に育むことはできないからです。
 子供たちにはそうした教員からなる集団としての学校もしくは社会が必要ですし、またなによりも保護者自身が人間存在が損なわれることなく成長できる社会環境の担い手となることから始めることが必要であるということができます。
 私は二人の子を持つ父親として、子どもには人智学を教えませんでした。シュタイナー学校に入学させることも望みませんでした。それは、人智学は教えるものではなく、体験し獲得するものであるという確信からです。
また、数少ない近隣のシュタイナー学校の情報からは、施設設立に関する広報以外で、学習カリキュラム、その意義と目的そして通常の学校教育との違い、成果や生きた情報として得るものは何もありませんでした。耳にするのは、保護者の戸惑い不満で、シュタイナー教育の目的が理解されているようには受け取れないものです。
 東洋のシュタイナー教育には、多くを期待はしていませんでした。西洋的な空間軸を基調とする民主主義が、時間軸を基調とし、アストラル光に基本的に退化と後退しか展望を見いだせない東洋は、もともと箱物や制度や肩書を好む民族で、それは政治経済社会のあらゆる場面で露わになっていますが、人智学をツールとしてではなく、目的としてしか位置づけることのできないところで留まる民族であるに違いないという思いを払拭させる出会いは、そもそも期待できません。実際、東洋人のエーテル体、そしてアストラル体は、西洋的である人智学的概念がそのままで東洋に受け入れられるものとは異なったものであるに違いありません。

 システム化されたカリキュラムや箱物の教室が、シュタイナー教育実践をもたらしてくれることはありませ。人智学の死んだ知識が、人智学教育の目的を果たせる筈もありません。溢れるばかりの死んだ知識よりも、人智学的覚醒、アストラル的覚醒が重要であるということができます。しかしながらシュタイナーは、アストラル的覚醒を、教育者の絶対必要条件とした訳ではありません。子どもたちの柔軟なアストラル体の成長と共に協調、共感して共に成長できる教育従事者を求めました。
 キリストは隣人愛において、仏陀は同情と慈悲とによって、覚醒への道に光を示したということができます。東洋は、アストラル体において未分化であるが故に、強固な知性からではなく深い同情や慈悲からきっと人智学の覚醒に至るに違いありません。悲惨と苦痛により深く共鳴するアストラル体を有するが故に、隣人への同情と慈悲は深まるのに違いありません。エーテル体もしくはアストラル体に直観的に気付くとき、感動などの体感を伴った生きた知識として照らし出すということができるに違いありません。
 『もし皆さんが皆さんの表象像に対して好感を持つようなことがあれば、皆さんはこれを「のみ込んで」しまうでしょうから、想起(明確な表象像)は全く起こり得ないでしょう。皆さんが想起を持つのは表象に対して一種の嫌悪を持ち、これを投げ返すことによって表象像を現在化するからであります。これが表象(概念、観照)の真相なのです。』シュタイナー 一般人間学 新田義之訳 32ページ [()内は筆者]は、例えて言うならひびの入ってしまったガラスのように分断され屈折した光を通してでしか、苦痛を体験した観照からしか見ることのできない光景があると語っているに違いありません。
 人智学的考察は、少年が世界に対する反感として嫌悪感を投げ返したのに違いありませんが、それが彼の文章からはどこかへと消失してしまっているということを見逃しません。若者にありがちな感情的なエネルギーは、どこへ消え去ったのでしょうか。
 こうした少年は、一見従順に学校へ通いますが、心魂は空虚となっているということができます。従順に返答はしますが、その目の前に広がる世界はファンタジーに満たされたものではなく、殺伐とした暗記としての知識を要求される無機質な空間しか開示していません。そこには未来への意志となる好感(希望や夢)は消え失せ、漠然とした鬱の世界が広がります。子どもは登校拒否となるかもしれませんし、大人は閉じこもりとなるかもしれません。不自然に反抗心を失い従順さを漂わせ無気力となった人間は、周囲には「よい子」として映るかも知れませんが心魂の虚無は深いに違いありません。好感と反感に素直なのが子どもの特質だからです。
 現代社会のアカデミズムである皮相的な心理学、あるいは現代の皮相的な知に偏った教育システムがもたらす、人間性の崩壊の断層がそこにあるということができます。人間存在が生まれる以前の過去から継承するもの、教育によって成長するべきもの、ファンタジーが生き生きとした直観として見据える未来が奪われることによって、子どもたちは声なき声で悲鳴を轟かせているということができます。
 この少年の母親は、「もしあの子をもう一度おなかの中に入れられるのなら」と願っています。これは、唯物主義的で人智学的人間観とは相容れないものです。人智学を知らなくても、人間が生まれ変わることのできる存在であり、肉体と精神からのみから成るものではなく心魂的存在である事実が社会の基盤を成していれば、母親はきっと「こわれやすいガラスの様な心であっても、息子は息子のままで生まれ、そしてありのままの息子が生きることのできる世で次の生を受けて欲しい」と願ったのかもしれません。
 私たちは何気なく通り過ぎてしまう目の前の世界、例えば高橋氏の語る悪魔的な経済システムの現実や、多感な少年を自殺に追い込む教育システムの現実、等に、覚醒することが必要であるのだということができます。人智学教育もしくは覚醒した大人たちが形成する社会的基盤が、心魂的自殺、それは劣悪な孤児院で乳幼児たちの生きる目的、意志が掻き消されることによって高い死亡率をもたらしたという報告に似た、そうであったかも知れないこの少年のような無気力さからくる自殺を防止するに違いありません。
人智学が示す人間教育の自戒すべき指針の一つが、教育は現在生きている者に対してばかりのみ有効であるのではない、ということです。ですから、覚醒は現在においてもまた未来においても、時間軸において手遅れとなるということはあり得ないということを、人智学は語っているということができます。このことの意味が理解されるに従って、人智学の重要性が覚醒の中に刻まれていくに違いありません。

 2010年12月26日朝日新聞生活面で、作家の吉村輝子さんの記事から。
 「1946年、女性が初めて一票を投じた衆議院選挙の翌日、14歳だった彼女は、満開の桜の下で5人の米兵に襲われます。『傷物になった以上輝く未来は望めない』と、2度の自殺未遂。しかし付き添った警官が『何があったかは知らないが、人間は何があったかではなく、どう生きたかで決まるのだよ』と言葉を掛けられ、死ぬことを思い留まる。その後18歳で初潮を迎えた時、自分が失ったものは、『幸せになろうとする意志』であることに気付き」、絶望の底に突き落としたものの正体が見えた時、怒りとともに這い上がった。
何故おぞましい記憶を語るのかとの記者の質問に、「大学で講義をしている時、孫世代の学生に『寄る辺のない孤独』を感じ接するうちに、今という時代が分からず闇の中を手さぐりで生きている姿が見えてくる。過去を知らないから未来指向が育たない。ならば、現代史の語り部になろうと思い立った。」
 、、、、後略、、、、

 ここで吉村氏は、「絶望の底に突き落としたものの正体が見えた時、怒りとともに這い上がった」と述べています。悲惨な過去であってもその内実に気付く時に絶望の正体が見えて、そして未来指向が芽生えたのだと語っているに違いありません。
 苦痛を味あうことのなかった魂は怠惰となって居眠り続け、他者の苦痛が見えませんので、悪魔的な経済システムや魔術的な社会システムに気付きません。アストラル体が委縮した結果もたらす寄る辺のない孤独は、結局は他者の苦痛を感じることができない心魂の貧しさ、偏差値偏重の教育システムの遺産が、現代人をアストラル的自殺へ導いた人智学的無知が自他ともに戻ってきた結果であるに違いありません。このスパイラルは子供たちから喜びもまた苦痛も奪い去ることによって、世界の闇はさらにより深くなるということができます。
 吉村氏の語る『幸せになろうとする意志』、を持たない社会は、民族的没落を呈し、このアストラル的自殺は、心魂の闇を闇のままにしたまま、人間であることを自ら棄権するに似ているので
 

霊我の足音

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 3月 2日(水)14時25分57秒
返信・引用
  人智学に添って  「霊我の足音」

 人智学と仏教は、どのように係わり合っているのでしょうか。
 あるいは、人智学の東洋的解釈とは、どの様なものなのでしょうか。
 仏教的な慈悲と愛そして徳、の人智学的解釈とはどの様なものなのでしょうか。
 霊我とは、欲界(アストラル界)にある自我(利己主義的な自我)が、四苦を通じてアストラル体そのものを変質せしめて仏教的な解脱を獲得して、その智によって菩薩的な人間愛が仏教者的な隣人愛へと霊化した自我なのでしょうか。

 人智学は、人間的事実を解析し区分する際に、肉体とエーテル体とアストラル体とそして自我として捉えるだけでなく、人間の未来の区分(霊我、生命霊、霊人)の合計七となる区分についても言及します。現代科学が、自我に利己的な自我と利他的な自我を区分するように、アストラル体にも利己的なアストラル体と利他的なアストラル体を区分します。
 自我もアストラル体も通常の視覚では目には見えませんが、情動的な自我が存在するように、博愛的な自我も存在するものとして区分します。ですから、動物には低次元のアストラル体があるように、人間には高次元のアストラル体があるというのは、人智学的区分というよりは事実認識であると言えます。

 仏陀は、人生における四苦から逃避するのではなく正面から向き合うことで、そうした人間の有様に法(ダルマ)を認識し、苦界(四苦)から解脱する道筋としての四諦に覚醒し、そこに至る道筋として八正道を初めて(初転)説教(法輪)します。
八正道は、まずは人間の法としての七つの区分を正しく観るという説法の初めに「正しい意見」として述べます。これは、学問的意見や哲学的意見ではなく、「覚醒」を意味します。

 正しい意見は、合理主義がもたらす論理ではなく、永遠不変なるもの、人間の法(ダルマ)との対峙から生まれます。それは、人間が恣意的に創造した法ではなく、事実認識のものです。
 仏陀はそうした智(法)を、人類史上で初めて転じたとされています。仏陀は、人間の原罪としての幻想から目覚め、霊我(法に目覚めた自我)に至ったということが出来ます。そうした七つの人間の区分の智に至った後、その智が完結されるためには、人間が人間の七段階を歩んで成道するには生まれ変わること輪廻転生(輪)が必要であると説きます。人間の法が輪廻することで、人間は仏陀に一歩一歩近づくことができる天の理が、法輪と呼ばれるということが出来ます。
 仏教は、法輪の知を個人が具現化することを解脱と言い、解脱した人々が現わすことになるだろう未来世界の実相を浄土と呼び、かつての仏教徒はそうした理想の社会を求めました。

 仏教は、人間の内面に沈潜することによって見出すだろう成果として、四諦を明らかにしました。四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦、とされ、その初めに苦諦が挙げられます。
 人生は、苦悩であるという苦諦。何故人間性が覚醒する最初の一歩が、苦悩であり「正しい意見」とされるのか、それには訳があります。
 人間の苦悩と「正しい意見」は、アストラル界に密接に結び付いているからだということが出来ます。アストラル界は、苦悩の温床でありその実態を集諦する道筋にこそ、人間の七つの身体、法(ダルマ)が現前するからだということが出来ます。苦諦と法は、一心同体のものであるからです。アストラル世界が苦諦の原因であり、そのアストラル体は人間の法の一部分となり、人間存在を不可分に呑み込んでいました。
 このアストラル体を人間存在から追い出すには、苦諦から集諦に至るには、アストラル体を人間の本性に正しく区分し位置づけること、「意見」である「覚醒」がどうしても必要だったのです。




以下新聞記事抜粋
「2010年12月10日ノーベル平和賞 劉暁波氏 授賞式式典で代読された劉暁波氏の文章」
 私は(天安門事件の起きた)1989年6月、米国から戻って民主化運動に参加し、「反革命宣伝扇動罪」で投獄された。そして今また、私を敵と見なす政権の意識によって被告席に押し込まれている。 しかし、私には敵はおらず、憎しみもない。私を監視、逮捕した警察も検察も、判事も誰も敵ではないのだ。私は、自分の境遇を乗り越えて国の発展と社会の変化を見渡し、善意をもって政権の敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かすことができる人間でありたいと思う。
 私は私の国が自由に表現できる大地であってほしいと思う。そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、共存できる。多数意見と少数意見が平等の保障を得て、権力を担う者と異なる政治的見解も十分な尊重と保護を得ることができる。すべての国民が何のおそれもなく政治的な意見を発表し、迫害を受けたりしない。 表現の自由は人権の基であり、人間らしさの源であり、真理の母である。言論の自由を封殺することは人権を踏みにじることであり、人間らしさを窒息させることであり、真理を抑圧することである。
  私がしてきたことは罪ではない。罪に問われても、恨みはない。

 ここには一人の東洋人、そして一人の仏教徒というべき、苦諦に直面している人物の姿があります。彼の外的世界は、彼の人権を踏みにじり抑圧し抹殺しようとするおぞましいアストラル世界で満ちています。現世利得のみを崇拝する拝金主義者が、人間の内面に息衝くべき人権、同情、慈悲そして人間の現実的真理「覚醒」を踏みにじろうとします。正に彼は、「正しい意見」と「苦諦」とに向き合っているに違いありません。


 「2010年12月12日 アスニー京都 高橋巌講演会 エーテル体とエーテル界」
 初めて、高橋巌氏の講演会へ行ってきました。アスニー京都の3階の第8会議室が講演会場でしたが、そこへ辿り着くまでに少しばかり探し廻ることになりました。建物内の案内板の小さな遠慮がちな表示は、人智学の置かれている状況と私自身の状況が似ていると思わせます。
 講演は、終始にこやかに進みました。小さな会議室である会場には高橋氏の経歴に敬意をお持ちである人々でほぼ満席となり、その会場は様々な年代層の男女でとりまかれていたという感想です。現代社会では希少ともいえる結びつきで目的を共有していることが、目の前で現実となっていることが、とても素晴らしい光景である気がします。

 会場の中央左寄りの前列から2席目の高橋氏の左前の最前列に、薄いチェック総柄で全体に淡い紫の濃淡のストライプ柄で花柄の帯を締めて黒色の髪飾りをした女性が、着物の地味さとは対照的に高橋氏とは面識があるのでしょう、にこやかに挨拶されていました。私はたまたますぐ後ろにいたものですから、その一部始終を見ていたのですが、歩いてきて座るその動作の一つ一つになぜか関心を持たずには居られませんでした。その女性はとても姿勢よく背筋を伸ばし、後頭部の黒色の髪留めは肩の上部で安らいでいるのが分かります。この会場のへ足を運んでからの少しばかり浮足立って落ち着かない様子と、高橋氏と顔で向き合った時のきっと親しいに違いありませんが、お互いに公衆の面前を遠慮しているかのような短いやりとりには、きっと深い信頼関係があるに違いない何かを感じることができます。和服の地味さと対照的なにこやかさとそして失礼ですが野暮ったい洋服の高橋氏の組み合わせが、とても美しい光景であると感じると同時に、すこしばかりうらやましいと感じてしまいました。

 氏はおっしゃいます。共通の思想を持つ者同士は、相互に通じ合うことができる。その人間と人間との信頼関係が、「帰依」といえるのではないか。もっとも、高橋氏の思想は、 東洋には東洋の人智学があることができるように、また個人には個人の人智学があることができるというように、普遍的な人智学というものは存在しないということでしたから、氏は人智学の前で人はそれぞれ「帰依」が可能であるということなのでしょう。そのせいか、高橋氏は壇上に立ちながら講義という手法つまり教授するという姿勢からではなく、問題を提起してそして共に考えるための発案者であろうとされているかのようにお見受けします。

 高橋氏は、人智学と向き合うことは断崖絶壁に立ち、そしてそこから転落する何秒間かの凝縮した人生の様でもあるのではないかとおっしゃいます。それは多分人が断崖絶壁に立つ間は、自らがすがるべき何もなく頼ることができるのは己だけだおっしゃるのですね。ですから、人智学と向き合うことは命がけのことなのだと。人智学と向き合うということは、孤独な作業であるに違いありませんが、だからこそ相互理解という深い信頼に応じた「帰依」が生じるのであって、人間の心の深い部分あるいは孤独であるかもしれないものを理解しあえるのは、とても美しい光景であるに違いありません。高橋氏は、人智学は結論を求めるものではなく、常に発展していくものであるともおっしゃいます。人智学という深い人間理解をもたらしてくれる道具によって、私たちは共に前進したいという思想に、その女性はきっと高橋氏を通して世界に対して深い信頼と共感をお持ちになったのかもしれないと思えます。
 氏は当初、今回のテーマであるエーテル体は、目に見えないものだとおっしゃいました。そして人間が輪廻転生するかどうかは、良く分からないとおっしゃいました。そして人智学は、いまだに分からない部分が多くあるともおっしゃいます。人前で、ありのままの自分を曝け出されます。その姿は、人智学に係わる者としては異色であるように思えます。
 多くの自称人智学徒は、あらん限りの知識を羅列して自論を展開して見せます。その言葉や文章には、人智学用語の百貨店の様相を呈します。その特殊な用語を組み立てれば、人智学の全体像が構築できると錯覚します。人智学は、人間を理解する上での道標に過ぎません。
 確かに人智学は、目に見えないエーテル体や輪廻転生を人間理解の道標としている訳ですが、しかし目に見えないから理解が不能なものではありません。エーテル体は、目に見えなくてもその存在を理解することが出来ます。生物学者の誰もが生命力を見たことは無くても、生物に生命力があることを理解します。なぜなら生命は誕生し育ちます。病に対しても自己治癒力を備えています。人智学は、植物、動物、人間に備わっている生命力を、人智学的道標としてエーテル体という言語で区分するのです。
 エーテル体は死体には存在しませんから、エーテル的観照というのは、動的なものであるということができると言えます。単なる記憶や停止した概念にではなく、生きた思念、それは生命力体もしくは東洋的な表現の 「気」 がもたらした、そこから生じる生命力体のざわめき(音楽)であり、また他面ではさらに動的で喧騒なアストラル体の母体でもあるということができます。

 高橋氏は、エーテル体を見ることはできないとおっしゃいますが、氏自身がエーテル的観照をお持ちであることは、ご婦人とのにこやかなやりとり、それは氏自身はあまり気に留めおいてではないかもしれませんが、そのにこやかさが相互のエーテル的観照の交換として証明しているに違いないということができます。
人間と人間がお互いがお互いに帰依できるそうした場面では、何故という問いを立てることは無意味であると高橋氏はおっしゃいます。そこには個人と個人とのエーテル的交流があって、知性を超えたものであって、それは宇宙的事象の一部に組み込まれたものだからだとおっしゃいます。
 また時には人智学的認識もしくは思考は、合理主義思想からは超越したものとなり非現実的な結論を導くものであって、例えて言えば劉暁波氏の「私がしてきたことは罪ではない。罪に問われても、恨みはない。」の不合理な発言で有りながら、それはそれで完結し得るということと共通するものがあるように思われます。非論理的と思える結論を、彼は自由の選択肢の一部として、それが不本意で不合理で不条理な結果として人民裁判が弾圧を加えるとしても、それを恨むことなく甘受すると宣言しているのです。
 共感は他者と共通する認識の元に生まれますが、個人の認識そして到達する結論それが個我の導く自由という名の唯一者からのものである場合は、他の誰とも認識そして結論において共感そして共有の何も生じえないものとなる場合があります。むしろ他の誰とも共感し共有し得ない部分において、それは唯一者のものであることができるのですから、それに対する他人から何故という問いは意味を成さないことになるに違いありません。
それは、一見非合理な様相を呈することになるのでしょうけれども、それが命をかけた結論として個人を生かすものとなる場合はその結論に他者の何故という問いと非合理という批判は意味を成さないということができると言えます。もはや合理主義思想や他者からの干渉を、唯一者の自由が引き受けることはありません。そして個人の尊厳とは、共通の価値観と合理主義を超えた向こう側で選択した自由の、そこにようやく唯一者を見出すということができるのに違いありません。
 しかしながら他人の共感などを必要とせずとも、他人の視線からは何故という問いと理由を必要としない不合理なものが、そのように孤立した唯一者の認識もしくは自覚が、自らの積極的な意志において自由を見出すものである場合、孤高でありながら干渉され得ず共鳴され得ないものでありながらも、他者の意識に対しては自由に関与することが可能となる場合があります。
 他人の自由や人格に干渉するという意味ではなく、他者の自我、価値観、自由な判断を共有することが可能となる場合があるのです。なぜなら唯一者としての自我は、他者の苦痛を共有できるからこそ、他者の魂の苦悩の間を自由に漂流することが可能となるからだということができます。



唯一者の自由は他者との断絶によってしか存立されないかのようなこの矛盾する結論は、自由となった者の心的そして霊的な概念は、自由な思念の中で同時性と同一性を獲得するからだということができます。多くの人たちがそれぞれ違う場所で同時に同一性の思念もしくは観照を得ることが可能であるというのは、エーテル的観照は自他の区別を有さないからだということができます。エーテル的観照によって得た自由な魂は、エーテル的に自由になって他者のエーテル的通路を通って魂の交流を可能とし、他者における全ての自由と苦悩を甘受するということができると言えます。唯一者となった魂は、自己においてのみならず他者においても自由だからです。
仏陀は同情という通路によって、八正道が人それぞれによって異なったものとなるという、「覚醒」がもたらす「正しい判断」を導きます。これは、集諦である道筋のものであります。「覚醒」がもたらす「苦諦」は苦痛をもたらすものでしかありませんでしたが、「覚醒」はやがてそこに(法)ダルマを開示します。
そのことに「覚醒」した魂は、「私がしてきたことは罪ではない。罪に問われても、恨みはない。」と宣言することを可能にします。

 唯一者となった自由は、他者の誰からの拘束も受けないことによって自由を獲得する瞬間から、その自己の覚醒は苦痛を生むことになると言えます。何故と問いを発する他者の無明な言葉と、合理主義者の無明な根拠からの、それらの全ての言葉が彼ら自身に戻って津波のように襲いかかる光景を目の当たりにするからです。
何故という問いは、結局は自分自身にしか向かいません。答えは、自らの内面にしか存在しないからです。劉暁波氏は何故あのようなことが言えるのかではなく、劉暁波氏は正しいのか否かを、それがどの様な結果をもたらすのかを問う言葉が必要なのです。合理主義がもたらす言葉よりも、自らの内面の深い部分からやってくる言葉を厳選することこそが八正道の「正しい言葉」に違いありません。
「正しい言葉」は、「集諦」によって心の深い部分から紡ぎ出されます。

 魂の深い部分で生まれる信頼には、権威に従属しない新しい帰依の感情が生じるということができると言えます。高橋氏の自らの経歴をひけらかすことがないばかりでなく、自分は臆病者だと笑ってあえて裸の姿を晒し出そうとされる姿と、そこで交換される他者とのにこやかさは、エーテル体が相互にハーモニーを奏でているに違いないと確信できるのです。
 ですから、信頼によって結び合わされた人間関係には、お互いがお互いにどの様に帰依するのか、そしてそれにふさわしい行動としての「正しい行為」が求められます。
  劉暁波氏が、個人の人権と自由を獲得するために命をかけて共産主義と対決するのは、「正しい行為」であるということが出来ます。「覚醒」以前のアストラル体は、自らのアストラル体を分別することができません。その結果自他を分別することが出来ないように、公私が分別できません。自他を分別出来ない心魂に、他者の人権を自己から分別することが不可能なのです。その結果が、ファシズム思想、共産主義思想を輩出したということが出来ます。

 シュタイナーによれば、隣人の不幸を他人事とせず、不幸が存在する限り自らも不幸から解放されないと感じる時代が来るのだそうです。劉暁波氏は、自らを不幸だと語るでしょうか。いいえ、きっと同胞の不幸こそを自らのものよりももっと大きな不幸、それが同胞をのみ込むように襲いかかっている大きな苦痛として感じているに違いありません。生き方ではなく、死に方へと転じた観照には、逃れられない他人の不幸と苦痛を自らにとって同質のものとして映るのに違いないのです。
 ですから劉暁波氏は自由という名において命をかけて国家権力と戦うこともできるし、また高橋巌氏が命をかけて人智学的世界との有機的な出会いを求める価値があると力説されるという意味において、それに対する何故という問いや非合理的だとする言葉に苦痛を感じる魂は、その苦痛の深さに応じたものとして他者に対しての同情と慈悲しか見いだせないのです。
 「苦諦」から「集諦」へ至った魂は、「滅諦」である同情と慈悲へと向かうのを(法)ダルマとして認識するということが出来ます。正義を正義とし、人権を人権とし、他者の「苦諦」を共有し「集諦」に同情し、慈悲によって「滅諦」を実現しようとするすることを「正しい努力(精進)」ということが出来ます。

 自立した完全な自由とは、世間のしがらみとは無縁となることをも意味しますから、また他人と共有する価値観から孤立する唯一者となることをも意味しますから、唯一者である部分において絶対的に孤独であるということもできます。認識において誰とも共有できない部分があるという意味で、唯一者であることができるからです。人間の七つの身体のことと輪廻転生についてを人智学が語る内容は、現代社会のアカデミックな価値観を否定させ決別させ、唯一者としての道筋である人智学的覚醒を必要としているに違いありません。
 仏陀においてさえも初転法輪を断念しかけたと伝えられるように、唯一者としての人間的な生き方を求めるのは、「覚醒」から「滅諦」までを語る「正しい言葉」をもたらすことは「正しい努力」であって、仏陀はその道筋を語るに留まらざるを得なかったということができるに違いありません。

 世界には生まれ来る者と死に行く者があるように、覚醒した人智学的世界観には赤裸な存在としての赤子や老人が、ありのままの姿で現前することになります。多くの者は夢見心地のままで、真実と向き合うことのないままに、幻想にとりつかれたままであったり人生を仮装したままで一生を終える姿を、人智学的認識は冷徹な眼差しの前で開くということができます。
 人智学に無知であることが、いかに恐ろしい学校教育文化の中に子供たちを閉じ込め抑圧しているかにやがて気付かせるのです。そうした人智学的覚醒は、そのとき苦痛の世界、パンドラの箱を開くに等しいということができます。この苦痛は、また苦痛という名において唯一者の覚醒であることによって、他の誰とも共有できないものとなります。高橋氏にこのような苦痛が存在しそれが私のものよりははるかに大きいものであるに違いありませんが、私はそこに近づくことはできても、共有できる苦悩の部分を超えた人格には辿り着くことはできません。
 しかしながら、深い信頼関係にある人々に交わされるにこやかさには、その全ての苦痛に融和をもたらす特別の熱があるに違いないという確信をもたらしてくれます。そこに思考を超えたものとしての高橋氏の語られた生命力としてのエーテル的出会いが得られるに違いないのです。
人間が有する直観は、論理や思考を超えてはるかに有機的で正確なものであるということができます。なぜなら思考が認識するものは、せいぜい今世の体験に過ぎないからです。人間が現世を生きていくということは、死者と共に生きているのだという人智学的世界観が理解されれば、エーテル的な深い絆がにこやかさの中で結ばれることが重要となるにちがいありません。人智学的覚醒がもたらす苦痛が、自由という選択肢の前で共有され共通した認識となることで、世界の苦痛が解消される一歩となるに違いありません。
 この道筋は、「苦諦」「集諦」「滅諦」を理解し「道諦」の道筋である「正しく思念する」ことによって為されるに違いありません。これは、「覚醒」した人生を歩むことに他なりません。

 こうした「四苦」そして「四諦」の苦痛に耐えることができなければ、高橋氏のおっしゃるように死に物狂いで人生に向き合う覚悟がなければ、人智学に立ち入らない方が良いのかもしれません。この苦痛に立ち向かう唯一の方法は、苦痛の内容に客観的に向き合うことであるということができます。世界の悲惨さの原因とその解消法を理解することだということができます。それこそが事実認識としての、またツールとしての人智学であるということができると言えます。人智学はいわば指南書であって、人間の法則を解明するものではなく、その道筋を指し示すものでしかないということが出来ます。
豊かな感性に満たされているが故に、人間の法則が蹂躙された世界に絶望的に叫び続けている子供たちの悲鳴が聞こえるでしょうか。それが聞こえない校長たちにはいじめは存在しないのですが、現代社会において人智学的世界観と向き合うということはその悲鳴に耳を澄ますということであるに違いありません。人間の法則を知ってもその悲鳴が聞こえなければ、深い同情と慈悲が人間の内面を満たさないものであるなら、その人の人智学は死んだ知識に過ぎません。
 劉暁波氏において既に唯一者のものとなった自由は、自らを弾圧する権力ですらもはや自由を奪う敵とはならず、また高橋巌氏においても、赤裸な自己の姿で世界の真実と向かい合おうとする自己の姿は、現在の生と未来の死の前で対等に屹立しているに違いありません。なぜなら、唯一者である自己は、過去の自分でありまた同時に未来の自分でもあるからでしょう。宇宙から遺伝として引き継いだ唯一者としての概念もしくは自我は、赤裸となることによってこの世界から覚醒をもたらし、それが未来世界へと引き継ぐものとなって、人智学的覚醒は近未来に霊我を見つめさせ、既にそこかしこにそうした人々がそれぞれの場所で既にその足音を響かせているに違いありません。
 劉暁波氏が、「私がしてきたことは罪ではない。罪に問われても、恨みはない。」と語ることがどの様に中国社会で革命的で偉大な行為であるとしても、また高橋氏が命をかけて人智学と向き合ったとしても、そこに輪廻転生としての未来の個人の内面の発展が無ければ、法輪は完成しません。この道筋においてこそ、発展した次なる「正しい意見」へと回帰し、人間は(欲界)アストラル体を放出する道筋を次第に獲得して行くに違いありません。

 全身全霊を込めて輪廻転生がもたらしてくれる未来の自我(霊我)に眼を定める、それは「正しい瞑想」であるに違いありません。
 法輪は、輪廻転生なくしては完結するものとして語れないものです。しかし仏陀は、そのことを多くは語りませんでした。何故でしょうか。それは、「四諦」や「八正道」が人間の内面に深くかかわるものであるのに対し、輪廻転生についてのみは人間の外なる宇宙と係わるものであったからだということが出来ます。
 輪廻転生は、東洋の特質に照らして東洋的智の範囲外のものであるからだということが出来ます。東洋の民族が輪廻転生の概念を正しく受け入れるとは、仏陀は考えていなかったからだということが出来ます。
それは、何故なのか。仏陀の教えであるこの世は幻影であるという教えは、この世のアストラル世界こそが苦界であるという教えは、その当時の人々がこの世よりもあの世に重きを置くということを知っていたからに他なりません。
それにも拘わらず、人智学を東洋的解釈の中で捉えることで、既に霊我の足音がアナログな世界に響いていることを、少しは明らかにしているかも知れません。人間の内面を語った「四諦」や「八正道」からではなく、仏陀が多くを語ろうとしなかった輪廻転生の外的世界に目を向けることで、仏教はこれまで顧みられることのなかった新たな展開を見せるに違いありません。

 

はじめまして まずは自己紹介から

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 3日(木)13時53分26秒
返信・引用 編集済
  人智学に添って 「出逢い」

 ある日テレビの中で、催眠術の話がありました。それは現代という社会それは例えて言うなら経済システムにおいて、それが悪魔的であるにもかかわらず、人々はそのことに気付いていないというか、無関心であるとおっしゃるのです。それはいわば盲目的であるという意味において正しく経済的オカルティズムであって、その催眠術に気付いていないというのです。
人間の尊厳は、社会の有り様に拘束されるのであって、それはまた個人個人の魂の在り様いかんであって、それぞれの生き様が問われるというものです。現代心理学からではなく人間を肉体と精神とそして心魂とから捉える立場から言うには、魂が失われた状態が、夢遊病もしくは催眠術に掛けられた状態で、いわば脱魂状態であって、そこには人間の肉体と心理学が捉える精神が残る。その様な時の人間は、主体である自我が失われいわば肉の塊のようになって受身の状態になる。そうなると脱魂状態の人間には、現実社会の在り様または他人の言葉なりが侵入して、操り人形の様になる。その様な個人が増加するに従ってさらに集団催眠へと進んで、我々は社会感覚では経済的催眠術に限らず、そうした状態に陥っているに違いない、、、、と。
 このような脱魂状態、それはいわゆる意識の眠りがもたらすものでありますが、経済的催眠状態以外にもいたるところにあります。その典型的な実例は軍人もしくは自衛官のロボット化で、自らが何のために軍人であるかを深く問いかける間もなく、肉体的に限度を超えるような訓練と疲労で思考能力を失わせ、命令に絶対服従の反復によっていわば脱魂状態にします。これと同じ構図を企業戦士にも窺い知ることが出来ます。多くのサラリーマンは、人間である自己に向き合う間もなく資本経済システムの歯車として隷属して行くことになります。
 このテレビ番組から申し上げることは、独断と偏見に満ちたものとのお叱りを受けるかもしれませんが、その内容から何が人智学的に分析できるかということについて論考してみることにいたします。
 さてここで言う人智学とは、ルドルフシュタイナーがおよそ1世紀前に提唱した人間認識論、評価は分かれるかもしれませんが、仏陀論からキリスト論に至る、人間論的考察に関するものです。シュタイナーは神秘学にも深く係わった人物ですが、またシュタイナーを語るには彼の神秘学を抜きにして語ることは不可能ですが、ここでは西洋的神秘学ではなく、東洋的思惟それは仏教に代表される人間の内面とそこで認識が可能な範囲に留めて論考を進めていきたいと思います。

 それは、シュタイナー人智学の東洋的解釈に関するもので、東洋は東洋の門戸を開くことで人智学を深化させることが出来るに違いありません。なぜなら、民族がそれぞれ異なった言語を持つように、母音も音階も異なっているからです。人智学は、民族、言語、人種、体型そして遺伝子が異なるように、そこから派生する人間学に関するもので、東洋的思惟、それは仏陀の語る宝輪に関するものであるということが出来ます。人間的内面の真実に向き合おうと禅を組むことによって浮かび上がる、人間学と位置付けることが出来るものです。
 人智学を学ぶ道筋というか、その門戸には大きく分けて二種類あるとします。一つは学習によるもので、もう一つは体験あるいは直観からのものであるとします。学習とは、文字通り読書など研究によるものです。この場合は、簡単に言うと人智学の認知、判断、そして概念化という道筋を辿ることになると言えます。人智学の愛読者や翻訳家など、がその戸口に立つということができると言えます。
 そしてもう一つの戸口、それは体験から人智学に向かう人のことです。こうした人は、天性のものとして人智学に出会う以前に断片的ですがおぼろげな人智学的概念を備えている場合があります。けれども、認知、判断、概念化という道筋を辿るのは、両者とも同じであるに違いありません。要するに、概念は想起を反復して鍛錬しなければならないということには、どちらの入口に立つにしろ変わりはないに違いありません。
 しかしながらこの二つの入口が違うように、プロセスは同じようなもので辿り着く概念は同じものであるとしても、多くの人智学徒にとってその姿は違ったものになるということができます。
 で、私はテレビ画面の人物の場合は、そのどちらなのかということに関心があったのです。その人物が人智学を熱く語る、そこに対する深い傾倒は、そのどちらからなのかということをです。人智学は、人間をエーテル的に、またアストラル的に、そして自我的に把握しようとします。しかしこれらは概念の形態の一面であって、それが真実を表すものではありません。どのようにエーテル的に現れているのか、どのようにアストラル的に現れているのか、どのような人格なのかということが明らかにされねば、人間像は明らかになりません。また人智学的な見識には至れません。
 テレビ画面の人物に限らず、人間を人智学的に分析しようと試みているのは、単なる好奇心や悪趣味からではないことを弁解させていただくことにします。今回の意図は、昨今の人智学に対する無理解な批判に対するものとして、感じている危惧からのものです。もともと人智学とはどのようなものであるのかを、少なくとも誤解の部分を明らかにできれば、現在の人智学に対する評価、批判が変わるかもしれないと思うからです。

 人智学的認識は、本来私が日常で花を見るように、そこにあるものなのです。これは、シュタイナーが創造したものてはなく、誰の眼の前にも在るものです。なぜ花がそこにあるのかは、今は問いません。しかし花が目の前にあるように、人間のエーテル体があってアストラル体があって、そして人間存在である人格というか個我が目の前にあるのです。ですから、例えば虹が位置の違いによっては見えない場合でもにそこにはあって、見える位置にある人には見えるものだからなのです。それをシュタイナーは、仏陀が宝輪を転じたものとしての内容を、人智学という西洋的な解釈で捉え更に発展させたということが出来ます。仏陀は心魂の内なる宇宙を語り、西洋は外なる人間の外的宇宙を語ったということが出来ます。

 テレビ画面の人物を動画として見ていると、ゆっくりとした口調の中に読み取れるものが少なくありません。話の最中に目は、前方の少し上の方を向いているのが分かります。言葉は流暢であるとは言えません。ときどき言葉を探すかのように呼吸が乱れます。これは、記憶を辿っている兆候であるということができます。
 言葉は落ち着いていますが、思考の澱みが見られます。しかし思考が訓練されたものであるので、慌てません。が、人間が生きることの尊厳のテーマに添って、感情が突出するようにまくし立てるようには言葉が出てきません。当日のテーマは人間の尊厳がいかに損なわれているかについてでしょうから、その人物がその感情を受け止めているなら、もっと違った風になったに違いないのです。上げ底の評論家のように冷静に語るのではなく、誰かが催眠術にかかっているかのように異常な事態の傍を何気なく通り過ぎる現実に声を荒げて怒ったとご本人がおっしゃったように、その人物自身も怒って喋るべきではないのでしょうか。そうしないのは、その人物が、単に記憶を辿っているからでしょう。思考が記憶を想起するだけでは、それが概念の深部から来るものでない単なる記憶は、感情を伴ってやってくることができないという一つの側面が、言葉や文章には現れます。つまり、人間の尊厳がいかに損なわれているかというテーマを語るという意思に、感情と思考が協和音を伴っていないのです。

 それは、しかしこの人物の一面の部分でしかありません。なぜなら、現代においては多くの人々が学習によって戸口を開くタイプの人であるに違いないというようにです。
 この人物のように例えば人智学の認識を深めた人は、認識内容が個人の意識形態にも影響をもたらすに違いないということができます。つまり、心魂の深い部分での体験は、時として人格の変容すらもたらすということができます。心魂の深部に達した認識や概念は、エーテル体やアストラル体すら変容させる、良きにつけ悪しきにつけ、ということができると言えます。
 ではテレビ画面で見るこの人物は、学習という戸口によって概念もしくは見識の変性は生じたのでしょうか。それについては、アストラル体の事柄でもあるので、ここでは取り上げません。また、自我でもある人格にまで人智学が影響を及ぼしたかどうかについいても、ここでは取り上げません。ここでは、強いて人間の存在の原因であるエーテル体を主眼として論考を進めることにいたします。
 人と人とが出会うということは、通常は意識化されませんが人はお互いにエーテル的に相手を感受するということができます。それはどのようなことなのかと言いますと、端的に言うと肌で肌を感じるというニュアンスです。幼少期のエーテル体は、アストラル体の前面で漲っているものですから(人智学は人間は最初の7年期にエーテルの鞘を脱ぐと説明しますが、だからといってエーテル体が消滅する訳ではありません)、エーテル的熱を伴って感じる場合もあります。それを波長が合うとか合わないとかの、好感と反感で人間は向き合うということができます。エーテル体は人間存在の原因であり、また同時に未来への萌芽を含んでいるということでもあります。アストラル体は、エーテル体によっていわば花開くということが出来るので、人との出逢いはまずエーテル体と向き合うというのが順序であると言うべきでしょう。

 ですから、人間が世界と対峙するというのは、感覚的にエーテル体と向き合うということができるのは、目の前の花と出会うように自然なことなのです。人間は自己存在の根源であるエーテル体で世界の生命、人間と対峙するというのは、自然なことなのです。人間が世界に対して美的感覚や嗜好が異なるのは自然なことで、それが外的要因から強制されることによってエーテル体が歪む場合があります。世界に対する感受は、本能的に嫌いなものは嫌いで、好きなものは好きなものとして現れます。もともとの人間性を個性を持つ音楽として捕えると、嫌いなものを押しつけられるとそこに不協和音が生じることになります。

 そのような好感と反感の動物的本性から進化して思考という認識を勝ち得た人類は、同時に不協和音をも引き受けなければならなかったということができます。外部世界を意識的に感受するということは、知恵の光としての認識と思考を手にすることですので、人類は外部世界と自己との区別としての自我(知性)を手にする訳ですが、およそ西暦元年に遺伝と血統に束縛された自我から解放される時代が人類にやってきたのです。すなわち思考と感情と意思をコントロールすることのできる人間性(知性)の獲得です。この知、情、意は、人間性を表出していて、エーテル体として人間存在を前面に現します。すなわち、宝輪として転じられた人間の内面的宇宙の認識が、人智学的な外部世界の宇宙観へと引き渡されたのです。
 このことについては、シュタイナーは仏教とキリスト教の論考で自論を展開していますが、仏教徒であることが、涅槃や解脱を獲得することが、社会の文化を享受しあるいは文明を発展させる直接的な原動力とならないことを理解するなら、仏教が新たなエーテル体を必要とせざるを得ないことを直観できるに違いありません。
 例えば、この人物は仏教徒ではなく現代社会の悪魔的な経済システムやまるで催眠術に掛けられたかのような日常の中で、この人物の言葉は魂の深みから湧いて出るようではなかったとみなすことができます。それはエーテル体の揺らぎとなって現れます。学習によって言葉を学んだ者は、当初は言葉によってしか概念を形成することができません。学習したことによって新たな概念を自己のエーテル体に同化するほどまでに概念化することは困難な作業であるに違いありませんが、知識に因る広い意味での自己変性はそれが可能であるとしても、もともと単に知性のみに留まる者は、世界の解釈と言葉に不協和音を生じさせるものであるということができます。

 では、もう一つの戸口に立つ者の場合はどうなのでしょうか。学習からではなく直観から人智学に対峙する者の場合はどうなのでしょうか。多くの場合こうした者の意識は、深い眠りの中にあるということができると言えます。人智学は哲学ではありませんから、そうした者が人智学的認識に至るには長い道程が待っていて、自己の概念もしくは目覚めを待っている思考的認識が、世界との事実関係と直接に結び付くには多くの困難が待っているということができます。
例えばこの人物の語る人間性の疎外、それは催眠術に掛けられた様に人間性の尊厳を失わされた感覚は、直観から人智学の戸口に立とうとする者は学習からではなく意識の底深くにですが未分化な直観として既に芽生えているということができます。いわば本能的な反感を持つのです。そしてこの疎外感から解放される道筋に、人智学の戸口があって、人智学に立ち入ることによって彼はその瞬間からそれを必要とし始めるということができます。
しかしながらこの遺伝と血統から来るものから思考と感情と意思をコントロールすることのできる人間性の獲得に至るまでは、どちらの戸口からを問わず同様に長い道程がまっているということができます。なぜなら思考としての認識、反復、そして概念化は、相応の年月を必要とするからです。
そして仮に人間性の疎外感の深み故に自己変性に至った人物であるとした場合、人間性の疎外を語るこの人物は、きっと澱みなく記憶からではなく感情的に人間の苦悩を語るに違いないということができるのです。というか、言葉は感情からの吐露としてのものでなければなりません。なぜなら人間は、人間性の疎外感その深さに応じてその苦痛は深いものとなり、目の前の現実から解放されることがないからだということができます。

 エーテル体はアストラル体と自我とも分かち難く一体であり、エーテル体だけを取り上げることで人間性の論考を進めることはできません。ですから、ここでは人間性を論じる場合は感情も自我も付随したものとする必要があるのですから、個人を論じたものでないことをお断りしておきます。
学習から人智学の戸口に立ち入ろうとするということは、自ら迷路に突き進むようなものであるということができます。その結果、多くの場合判断を獲得するまでにも至らないということが生じます。知識を獲得することはできますが判断ができないことによって、概念に至りません。仮にそれなりの概念に至ったとしても、それは多くの場合抽象哲学へと変性します。限りなく複雑で言葉遊びのような哲学が生じるのです。知識が現実と結び付かないことに拠ります。意識が覚醒せず、知識がアストラル界で浮遊するのです。
 単なる知識からは、事実認識としての人智学は見えませんから、人智学はオカルト的に観えるのです。エーテル体やアストラル体それに自我といった人智学的区分は、人間観察の実態区分に過ぎません。エーテル体やアストラル体といった名詞が存在する訳ではありません。直観から人智学の門前に立つ者は、人智学の書物と出会う以前にすでにそのぼんやりとした人間区分と出会っているということができます。

 人智学は人間の事実認識に関するものですから、アカデミズムの世界からすればいわば新種の花を発見したようなものに過ぎません。高名な人物からのそして豊富な人智学的知識からの講演は、多くの人々に新たな認識をもたらせるに違いありません。人智学は自己の迷盲を解く有効な手段であることは確かです。しかしながらその効力がまた錯誤と迷路に導くというのも確かです。
テレビ画面の人物を拝見して、人智学の深遠さを学ぶことができます。何れの戸口から人智学に立ち入ろうと、また血の出るような学習によってもなをその奥は見えないということをです。学習によるものでも直観によるものでも、人智学に求めるもの、人智学が秘めているものは限りなく深いということができると言えます。

 人智学に無理解であることから、多くの批判が生じます。それは、人智学を標榜する厚顔無恥な自称人智学徒の口数に比例しているに違いないということを、私たちは自戒すべきであるに違いありません。それら錯覚や誤解は、結局すべては人智学に無知であることから生じるのですが、人智学的知識が単に記憶に留まるものである限りおいて全ての輝かしく人生の大半を占める経歴を総動員したとしても、エーテル体は通常においては遺伝と血統のものである骨格から微動だにしないものであることを私たちは自らに言い聞かせねばならないのに違いありません。
 人生の経歴や勲章がエーテル体に影響を及ぼさないということは、人物に対するエーテル的観照は名刺や肩書きを必要としないということでもあります。思考し判断し発する言葉が、その人なりを露わにします。語られた言葉を吟味することで、それが目覚めたものであるか夢見のものであるか、それとも熟睡の中にあるかを区分することが可能です。それらは当初一瞬の閃きのように直観的に感受しますが、人智学を学ぶことで感受した内容を区分することが可能となります。
 人間存在の原因であるエーテル体、形成者である心、そして形成物である肉体を更に詳細に区分が可能になると、それらが民族的な特徴を備えていることが分かります。エーテル体は、遺伝として血統としてまた骨格として人間存在の原因を表しているからです。

この区分は人間を詳細に観察するなら、学習からあるいは直観から人智学的区分を応用することで、決してオカルト的ではないことが理解できるにちがいありません。この作業を通して学習からあるいは直観から人智学の戸口に立つ者の場合は、自らのエーテル体の変性を果たし得るまでに強固な意志を保ちえるなら、それは可能となるに違いありません。そしてこの道筋からそれを達成するのは極めて困難であることが、エーテル的視点から理解できると言えます。
 遺伝と血統から来る思考と感情と意思をコントロールすることのできる人間性の獲得が可能となった時代とはいえ、それがすべての民族のエーテル体に該当する訳ではありません。エーテル的素質が他の要素と不可分であることによって、エーテル体は特有の色彩をそして音楽を放ちます。それが民族のものへと下降していくというのが一側面の表出だということができます。様々な花々と色彩があるように、エーテル体に様々な区分が生じるのは自然なことであるということができます。
シュタイナーは冷徹にも、民族を優劣の区分によって語っています。それは人間を子供と成人と老人のように区分するように、また民族にも類似の区分、子供のような民族、成人のような民族そして老人のような民族として適用し区分しています。このような区分は、極めて人智学的であるということができます。
 子供はいつまでも子供のままでありませんし、成人はいつまでも壮年のままで留まれません。老人は老人のままで留まることはできません。個人がエーテル的に、アストラル的にそして人間的に成長し変性して行くように、また民族も変性するのは自然なことなのです。皮相的な人間はそれを差別発言であると捉えますが、それはその人が自らもまた子供から老人へと変性し、やがては死を迎えるという事実とその理由を知らないからに他なりません。個人が死を迎えることを拒めない様に、民族の没落あるいは消滅はその延長線上にあるとしてもそれは不条理ではありません。
 人智学的区分には本来、政治的意図、人種差別的意図もありません。事実をありのままに語っているにすぎないのです。例えば、個人の死や民族の消滅は、人間が輪廻転生するという事実と共に同じ民族に転生するのではないという事実を理解することによって、民族の区分が人間性の区分とは違うものであることを理解します。
 シュタイナーの人智学に最後まで耳を傾けるなら、シュタイナーの人智学的見解が個人や民族を差別や偏見から捉えたものではないことに気付くことができるに違いありませんな。エーテル体は極めて変性度の低いものですが、遺伝と血統とそして骨格からすべての民族において思考と感情と意思の力によって自由を獲得できるものであることを、そのような時代が到来したことをシュタイナーは人智学的に示しました。シュタイナーの目的は、人智学の目的とは、私たちが自らの自由意思によって遺伝と血統から解放されるということ、その意味と道筋を示した、正にそのことであるということができると言えます。

 メタモルフォーゼは可能なのかと、問うことができます。キリストはそれをたった一言で示しました。それを、『隣人愛』として語ったということができます。

 エーテル体を感じたなら、人間存在を変容するには特別の『熱』が必要であるということが理解できます。その『熱』は、知性からは決して生まれないものに違いないのです。人智学においては学習という戸口から始まったとしても、結局は認識論的な論理を超えた現実という事実関係と向き合わなくてはなりません。例えば、キリストの弟子が生きたキリストの肉体の傷口に手を差し込んだかのようにです。
 人智学を知らずとも、覚醒の中で隣人を自分の如くに思考し認識するという行為、その結果人はエーテル的に自らの本質が他人と同質であることを学びます。キリストの指し示す道を辿ることは困難であるに違いありませんが、人は学習からでもなく直観からでもなく事実を受け入れることによって人智学の最終目的地、自己の謎に自らの覚醒によってたどり着くことができるに違いありません。シュタイナーは、それを人智学という回り道を通って膨大な分析的論考として我々に示したということができます。
 覚醒がどのようなものであるかを示すのに、一つの例があります。例えば人は日常を無意識に過ごす、ということができます。その日常をある瞬間に目覚めさせる方法があります。それは、他人の任意の号令に従ってその瞬間に日常の無意識な行動をフリーズ(反感と好感への潜入)させることによって、覚醒に似たものを手にすることができると言えます。無意識に流れていた時間を、そこにおいて「知る」のです。無意識な時の流れに覚醒をもたらすのです。
 無意識な意識の流れに認識の閃光をもたらすエーテル的観照を持つということは、現代社会においては苦痛であるということができると言えます。同胞民族である中国が、同胞民族であるチベット民族からチベット語を取り上げようとしている同化政策には、無数の棘が獲物を求めて突撃しているような鋭い痛みを感じます。中国は、チベット民族から言語を奪うことによって人々を脱魂状態にして支配しようとしているということができると言えます。

 覚醒(無意識に見過ごすことから目覚めること)であるエーテル的観照は、そうした人間的存在の不幸な事実関係から何気なく通り過ぎることはできないということを意味します。どのような美辞麗句も肩書も、エーテル的観照である覚醒にとって無意味となることによって、事実関係を露呈する時には冷徹とも映る人智学的世界観と対峙せざるを得ないことになります。
 人智学的世界観は、冷徹に満ちたものなのでしょうか。また悪魔的な経済システムがもたらす人間疎外の現実は、悲惨と苦痛だけに満ちた世界なのでしょうか。感情的には、きっとそうであるに違いありません。感情のみに支配されるなら、人間は生きる意欲を失うに違いありません。生きようとする意思のみにおいても、きっと人間は生きる意欲を失うに違いありません。
 悲惨と苦痛として映る日常の先にある覚醒としての何かしらを認識と思考として指し示す人智学が、だからこそ必要とされているということができと言えます。テレビ画面の高名な人物に見る口調からは、催眠術から目覚めよとの覚醒への言葉が響いています。どのような学習も直観も、覚醒なくして人智学に立ち入ることもそれを語ることもできないにちがいありません。


 注 エーテル的観照
覚醒によって、通常は見落としてしまうような微細な感受として、ほとんど直観的に受け取るもの。多くの人がそうした観照を持ってはいるのだが、眠った意識は、催眠術を掛けられたように気付かずに何気なくそうした事実関係の前を通り過ぎ去る。

 

はじめまして

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 2月 1日(火)14時54分7秒
返信・引用
  日本における仏教の現実とは

日泰寺訪問記より
http://kiwi-s.blog.eonet.jp/default/2009/05/post-1b93.html

東洋において、仏陀は落日の煌きであったというのは真実か否か?
 

はじめまして

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月31日(月)18時30分42秒
返信・引用
   なぜこのようなテーマを掲示板として選択したかは、苦慮した結果ですが、仏陀の考えに沿いたいと思ったからです。
 仏陀は、 四辻に修業完成者のストゥーパを創るべきであると語ったとされています。
 仏陀の遺骨は、日泰寺の隅の木々の中で、隠れるように収められています。
 それは、仏教の日本での待遇、有り様、そのものを象徴しているようです。ですから、あえてこの掲示板を拝借することにします。
 

こんにちは

 投稿者:管理人  投稿日:2011年 1月31日(月)16時27分37秒
返信・引用
   人智学についての議論が出来ればと思いこの掲示板を開設します。
 特に、東洋から眺めた人智学、仏教との関わりをメインにして、キリスト教の発展の未来へと舵を取ってみたいと思います。
 困難なテーマですが、目的は明確ですので、そこから脱線する投稿は管理人判断で掲示板から削除いたします。
 人智学に関心のある方の投稿を歓迎します。
 

掲示板が完成しましたキラキラ

 投稿者:teacup.運営  投稿日:2011年 1月31日(月)14時36分7秒
返信・引用
  ご利用ありがとうございます。

teacup.掲示板は
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